私小説「やっぱり、期待したい」
実は私は不妊治療中である。そろそろバリウムを健康診断で飲まなくていけない歳と言ったり、若い頃のようには行かないね、と自嘲すると「まだ若いでしょ」と先輩たちに笑ってもらえる年頃だといえば、同じように病院に通っている人たちはなんとなく状況を察せられるかもしれない。
子供が欲しい!家族を増やしたい!と小学校から願い続けて人生を進めてきた私は今、不妊治療三年目くらい。数字はリアルだから数えるのをやめた。今のお医者様を信頼しているから、もういつから始めたとか伝えなくても、向こうでカウントしてくれるはず。
数値と不妊治療を並べると、頭には「妊娠確率」が降ってきて、そのまま居座ってしまう。いや、ささっと家賃も払わなくていいから出ていって欲しい。
現在、体外受精1回目の私が妊娠できる確率は68%ほど。100人いれば68人が妊娠すると思う。だが、残念なことに私の業務で確率を扱ってきたから悲観的な気持ちになってしまう。
体感的には68%は、1000回ガチャを回して、680回当たるだろうという数字。いや、書き出してみれば、かなり当たるじゃないか。ただ、反対側の320回……1000人中320人の中に私は入ってしまうのか、となんとも抜け出しにくい後ろ向きの気持ちだ。
妊娠して、その子は元気な子だろうか。私は自分が描く母親像ほど強くはない。障害を持った子が生まれてくるのが酷く怖い。産まないために遺伝子検査はすると、思う。でも、必死で授かった子に私は別れを切り出せるだろうか。
子供が生まれたら、世界一愛していると言おう。スマホよりも楽しい家庭にしよう。本の読み聞かせだってするし、マリオパーティだって本気で取り組む。小学校を殆ど行っていない私は子供が学校でどんなことを学んで、何を感じて、楽しかったか聞きたい。反抗期がきたら、精神的自立が来たと思って、お赤飯を炊いて、ウザがられたい。そう簡単に我が血筋で反抗期がうまくいくと思うなよ、と笑う。
期待すればするほど、もしも、の時がきっと泣いてしまう。でも、まだ分割胚の写真を見て、写真を撮って、「もしかしたら孫になるかもよ」と母に冗談混じりのメッセージを送る。
希望を持っているから、涙を流すかもしれないけど、それでも私は期待したい。