フォロワーが自殺した。
2月末、Twitterのフォロワーが自殺した。
Twitterで自殺した人は腐るほど見てきたけれど、仲が良い人が死んだのは初めての経験だった。
彼女とは長い付き合いではなかったけれど、頻繁に通話する仲だった。
彼女は、異性としての自分に好意を寄せてくれていた。自分の頭がおかしいところが魅力的に見えたらしい。その点については未だに謎ではあるのだけれど。
彼女は異性に対してすぐ好意を寄せる人間だったのかもしれない。けれど彼女が自分に言ってくれた「好き」「一緒に住もう」「付き合おう」という言葉は本心だったのではないかと自分は信じている。
その日、駅へ歩いていると彼女から電話がかかってきた。自販機の横に座り煙草を吸いながら彼女と話した。
ある薬をオーバードーズしたようだった。
自分の経験上、致死量を越えてるし死ぬ可能性は高いと感じた。彼女の住所は知らないし、自分に出来たことは彼女の彼氏さんに連絡したことと、救急車を呼ぶように彼女を説得することだった。
けれど、自殺という選択は彼女の意思だ。だからそれを尊重したい気持ちが強かった。それに、死にたいという気持ちは痛いほど自分には分かっていた。救急車を呼ぶことを促しはしたが、それほど強くは言わなかった。
彼女は言った。「今から死ぬ人と通話してるのどんな気分?」
自分は考えた末、「ちょっと寒い」と答えた。外に出ていたから。
そう、その時自分は、自分でも信じられない程に、彼女の死に関心が無かった。彼女は良い子だった。一緒に話すのは楽しかった。なにより自分に好意を寄せてくれているのは本当に嬉しかった。
それでも、自分は彼女の死を悲しめなかった。
思ったのは、「羨ましい」ということ。
彼女は次第に「気持ち良い」と連呼していた。「ミネルバになれた」とも言っていた。そして、あー、うー、といった言葉しか言わなくなり、会話不能になった。その後電話を切った後に、死んだらしい。
その様子を見ていて、彼女は安らかに死んだのだと確信している。だから、彼女が羨ましかった。
今、寂しくはある。
でも、悲しくはない。
自分の中に何か大きなものが欠如していると感じた。
死んでほしくはなかった。これからも話をしたかった。だけれど、悲しくはない。
「死」に対する認知がかなり歪んでいるのだと思う。それが自分が自殺未遂を繰り返すヒントなのかもしれない。
彼女は最期にも「付き合ってよ」と言ってくれた。当時好きな人がいた自分は彼女の気持ちに応えることは出来なかった。
「付き合ってくれるなら、救急車呼んで生きるよ」と、脅しとも捉えられるようなことも言われた。それほど自分のことが好きなんだと嬉しかったが、自分の気持ちに嘘はつけなかった。
自殺については、その人の意思なのであるから尊重したいし基本的に強く止めようとはしない。
けれどやっぱり「もったいない」と思う。
自殺したらすべてが0になるのだから。
生きてさえいれば、幸せになれる可能性というのは絶対あるのだから。
本当は死にたくなく、本当は幸せになりたいのに、それを諦めて死ぬのは、勿体無いと感じる。
彼女が自殺して1ヶ月が経った。
これからも彼女のことは忘れずにいようと思う。
でも彼女のことを語るのはこれで最期にする。
自殺した人間のことをいつまでも語ることは、彼女を自己憐愍の道具にしているように感じるからだ。
こうして彼女のことを語る自分も、醜く感じる。