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仕事のこと(前半)|過去の自分が描く将来

 今日は体調とメンタルが優れず仕事を休んでしまった。病院に門前払いされ、ヤクルトを飲み体調を整える中、書き始めたら止まらないキャリアの棚卸し。今の仕事に辿り着くまでの道のりを、少しばかり共有したい。

小さい頃の夢は野球選手?

 保育園の七夕祭りで短冊に「野球選手になりたい」と書いていたらしい。
母はびっくり、そもそも野球観戦もキャッチボールもしていないのになぜだろうか。それは、曽祖父に「野球選手になれ」と言われたから。
5歳なんて家族が社会の全体像に等しいだろうから、曽祖父の言葉に従順に言われるがままの夢を持っていた。

身近な存在から描く将来-小学校-

 小学校入学と同時に始めたピアノ。幼馴染が通っていたからという単純な理由で通い始めたがどうやら性に合っていたらしく、小学3年生頃にはピアニストになりたいと思っていた。他には、理容師だったりパン屋だったり。なぜか宇宙飛行士に憧れた時もあったけど。
いずれにせよ、

  • ピアニスト…自身が楽しいと思えた音楽活動が原点。

  • 理容師…理容室で散髪しており、店主との話が楽しかったから。

  • パン屋…祖母に連れて行ってもらったショッピングセンターに併設された
    パン屋がお気に入りの場所だったから。

  • 宇宙飛行士…これはなぜかよくわからない。

宇宙飛行士を除けば、自分が楽しい、好きだと思える身近なことから仕事を捉えていたんだと感じる。

現実的、変わることのなかった夢-中学校・高校-

 中学校に入学し、吹奏楽部に入った。全校生徒が60人ほどの小学校に通っていたため、他校の生徒との出会いは新鮮だった。思春期ということもあり精神面が優れず学校はよく早退していたし、感情の起伏が激しく家族や友人には大きく迷惑をかけていた。申し訳ないと思っている。
 同時に、キャリア学習が少しずつ始まった。地元の銀行に行った職場体験や総合学習が懐かしい。
 ALTと話すのが楽しかったり、公文で英語を習っていたりと、英語に関心があった。漠然と英語を使って仕事をしたいと考え、思いついたのが市役所の国際交流課。父親や祖父が公務に従事していたこともあり、市役所の職員として国際交流課で働きたいという夢は自然な流れだった。
 したがって、中学2年生の頃には地元の市役所職員になるために、地元の高校・大学に進学し大学3年生の頃から勉強を始めて公務員試験を受験しようと考えていた。中学生にしてはなかなか建設的な将来像ではないか。なんなら高校生の時も市役所職員の夢は変わらなかった。

転機となった大学進学-高校-

 というわけで、地元の高校に進学したわけだが、最初の1年間はクラスに馴染めず非常に辛く、気づけば1人で昼休憩を過ごしていた。今思えば自分の殻に閉じこもっていたのは否めないが、不登校になりたくないと思い泣きながら行った日もあったなと覚えている。この頃の経験から自分の首を絞める思考が癖になっていると気づく。2・3年は文系クラスになり友人に恵まれ悠々自適に過ごしていた。恩師にも恵まれた。相変わらず、キャリア学習の時間には市役所の国際交流課で働きたいと謳っていた。キャリア計画書の出来が良かったのか、模範例として後輩の総合学習で使用されていたらしい。
 3年生1学期の懇談会で「海外に興味があるなら地元を離れて一人暮らしすることで異文化に触れた方がいいと思う」という恩師の一声で福岡県の大学を推薦受験したが残念ながら不合格。正直、受かると思っていた。悔しかったのでセンター試験まで毎日21時頃まで地元の観光案内所の休憩所で勉強していた。学科は変更したが無事大学に合格し、福岡生活の開始と、キャリアに対する考えに大きな変化が訪れる。


今回のヘッダーは地元の大好きな喫茶店・イエスタデイの店内。午前8時から空いているので終電を逃した翌日に駆け込んで小腹を満たしていた。広島市内に泊まる際はモーニングで利用してもいいのでは。

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