私が死のうと思ったのは――三十歳誕生日記念エッセイ
僕が死のうと思ったのは
誕生日に杏の花が咲いたから
その木漏れ日でうたた寝したら
虫の死骸と土になれるかな
――中島美嘉「僕が死のうと思ったのは」(amazarashi作詞・作曲)
いよいよこの日を迎えてしまった、この日まで生き延びてしまった――
十代から二十代前半の私は、三十歳まで生きられればそれでいいと思っていた。
そのことを私より二年早く三十路に足を踏み入れた恋人に言うと、「昔の友達もそう言ってたんだけど、嘘つけ、と思ったよ」と一笑に付された。
そうか、私もとうとう嘘つきになってしまったのか。
それでも十代から二十代前半の私にとって、その苦しみは本物だった。光が届かない人生の深淵に陥っていた当時の私は、将来を思い描く術がなく、ただひたすら死への憧れを自らの内に飼い馴らすことしかできなかった。不可解な他人に対する恐怖と、不条理な世界に対する失望も、死の想念を肥大化させていった。二十歳の時、友人とこんな約束もした――「三十歳になったら一緒に死のう」。あの友人の言葉は今でもよく覚えている。
「約束だからな、三十歳になったら嫌でも道連れにしてやるよ」
恰幅がよく、ほぼ男装と言える格好をしていた友人は笑いながらそう言った。この会話は中国語で行われたものだが、日本語に訳すとこんな感じになるに違いない。「お前、株をやって金儲けするような汚い大人になってくれるなよ」
「そんなもんになるか、安心しなよ」私は不服に言い返した。「約束だよ」
あれから十年が経った。私は株と投資信託をやったり、節税のために頭を悩ませたりするような大人になってしまった。
振り返れば、十年前の自分はあまりにも幼かった。未熟だった。無知だった。井の中の蛙だった。自分の見ている狭い世界が宇宙の全てだと早とちりをし、持っている浅薄な知識が万有の真相だと信じ込んでいた。世界には白と黒、善と悪、賢人と愚者、善意と悪意、味方と敵しかないという単純な思い込みに囚われ、その見極めに全力を注いだが、かえって疑心暗鬼になり、自分自身をとことん苦しめた。
しかしそうすることによってしか、当時の私にとって生き延びる術がなかったのもまた事実だった。毎朝目を開けると襲ってくるのは、また一日を何とかやり過ごさなければならないのかという悲哀の念で、一歩外に出ると目に見えるのは、得体の知れない大きな「他人」というものと、空を埋め尽くすほどの敵意と悪意の塊だった。ネット上で飛び交う流言蜚語、人づてで広がる陰口と嘲り。世界が私を殺しにかかっている――実際に浮世で命を落とした数多くの先人のことを考えると、そう思うのも無理はなかった。自分の歩んでいる道は、先人の血によって赤々と染め上げられている。そして自分もまた生血を滴らせながらもがいて進んでいる。いつか世界に殺されるのなら、刺し違えてやるしかない、と思っていた。
そして結果的に、そんな激しさが私を今日まで生きながらえさせた。ただ無力に泣き寝入りをし、全てをひたすら耐えていただけだったら、この日を迎えることもなかったのかもしれない。
あの友人が今頃何をしているのか、私みたいに株をやるような汚い大人になったのかは、私は知らない。あの約束を交わした二年後だったか、私と彼女は仲違いして絶交をした。実に些細な、取るに足らないような口論が原因だった。
結局のところ、生の意味を見つけることか、見つけることを諦めることによってしか、私は生きていけなかったのかもしれない。
命は勝手に活路を見つけていく(Life will find its way out.)、という言葉がある。この手の自己啓発的な安っぽい言葉は嫌いだが、今にして思えば、日本に来たことが、逃げてきたことが、活路に繋がる大きな転機だったに違いない。
台湾の田舎出身の私は、田舎の不自由さと息苦しさをよく知っている。家の中も学校も固定観念と権威が支配しており、大人達は指導者面をして「あなた達のことを思ってやっているのよ」「鍛えてあげてるんだからね」と口にしながら、法律に違反する方法でクラス分けをしたり、鞭や杖を振り回したりした。授業で教え込まれるような社会正義も、知識の力も、結局彼等自らの手によって折り曲げられていた、そう感じた私は逃げ出すことを選んだ。田舎から地方都市へ、地方都市から首都へ、台湾の首都に辿り着いてもなお息苦しく感じ、今度は海を渡って東京に降り立った。本当の意味で自分自身のために鍛え上げた、日本語力を携えて。
東京が私を救ってくれた。少なくとも私を受け止めてくれた。この巨大都市の滄海の一粟と化すことで、あからさまな悪意から身を隠すことができた。夜の帳が下りると、灯り出すネオンの群れの下を潜り抜けながら、何者でもないという自然な心地良さを味わった。悪意を向けられることも、臆病な自尊心や過剰な自意識に苦しめられることもなくなった。台湾的な、独りよがりな思いやりといった「人間味」はもう要らない、その気になれば他者と交わらないことだって選べる都会の温もりと冷たさにとことん浸らせてくれ、と思った。
私は新宿の喧騒と雑踏が好きになった。人込みに紛れると自分もまた少しも目立たないごく普通の人間に見えるから、土足で私の心に踏み込んでこようとする人はいなかった。一人暮らしの家もまた、傷んだ羽根を休め、癒すのに絶好の環境だった。区役所で手続きをする時も、学校の事務所に問い合わせをする時も、台湾のような官僚的な、見下すような態度を取られることなく、職員は過度に踏み込まない範囲でとても親身になって対応してくれた。
日本でなら、自分でも将来というものが手に入ると思った。私は給付型の奨学金を獲得し、授業料も生活費も悩まずに済み、学問に打ち込むことができた。生まれ持った学習能力を発揮し、就職活動というシステムに順応した結果、予定調和で大企業の内定も手に入った。ここまでは反抗的ながら少しばかりの小賢しさも併せ持つ私のシナリオ通りだった。思えば私はずっと、レールに乗せられることを嫌いながらもレールから大きく外れずにいる、社会やシステムを呪いながらも必要な時に順応したり利用したりする、そういうことができるような人間だったのだ。
大企業で働くことは、当面の生活の保障を意味していた。台湾の田舎出身の私が、日本を代表する大企業のいわゆるエリート・サラリーマンになれたことは、あるいは教育による階級の流動性が少しは保たれているということを示しているのかもしれない。
二十代も後半に差し掛かる頃に就職したことによって、それまでは薄氷を踏むような、一寸先が闇だった人生が、僅かながら前方の道が見えてくるようになった。「三十歳まで生きられればいい」という想念も、「もう少し生きてみてもいいかもしれない」というものに変わっていった。歩けば道は自ずと開けるもので、死ぬなら道が閉ざされたその時でも遅くない、という、楽観とも悲観ともつかない、しかし恐らくとても平凡なことを考えるようになった。
しかし一方で、生活のために企業の歯車として働くことについて、大人になりきれず諦念を抱き締めきれなかった私は少なからず疑問を感じていた。就職先はとてもホワイトな職場で、伝統に囚われる古臭いところがありながら待遇は申し分なかったし、職務内容もそれなりに能力が活かせるものだったが、自分が理想としていた職業とは程遠かった。十代の頃の私が理想としていたのは、概ね百年に一人の天才がなるような、凡人がなればただ野垂れ死にするだけの、そんな種類の職業だった。会社員生活はそんな青臭いアンビバレンスの中で始まり、暫く続いた。後にデビュー作となった『独り舞』にある記述に、当時の心境が反映されていた。
死に対して格別強い憧れは抱いていないが、生に対してもそれほど執着は無い。生きているうちはできる限り上手く生きようとするけれど、生の辛さが我慢できる範疇を超えてしまったら、彼女は何の躊躇もなく死を選ぶだろう。
――李琴峰『独り舞』p.3
就職がもたらす安定と、それ故により一層際立ったアンビバレンスの中で生み出された小説『独り舞』が、当時の私が全てを注いだ作品だった。未来に希望が持てず、絶望もしきれず、積極的に生きようとも思わず、死ぬこともできず、大なる悲観も大なる楽観も感じず、世の中の多くの物事をシニカルに見ていながらもそれらに抗いきることもできなかった、実にみっともない、中途半端な自分が作品に投影されていた。
皮肉なことに、そして運がいいことに、『独り舞』は第60回群像新人文学賞の優秀作を受賞した。当選作ではなく優秀作というのもまた随分と中途半端なもので、もちろん悲しむことではないけれど喜ぼうとしても喜びきれず、結局自分は天才でもなければ徹底した凡夫でもなく、才能と呼べるものは少しはあるらしいがそれは凡才に過ぎないということを思い知らされた。思えばそれまでもずっとそうで、台湾で文学賞に応募していた時も受賞はするものの、一位で受賞したことはなかった。
中途半端でも一〇〇〇倍の倍率を突破して第二言語である日本語で作家デビューできたという千載一遇の機会を、私は利用することを選んだ。それまでも学力や能力、奨学金や学歴などを利用して生きてきたように。人生に与えられる苦しみと喜びはやがて釣り合うというなんとも都合の良い発想を持つ気はさらさらないが、作家になったことで積極的に生きる気力が湧いてきたというのもまた事実だった。小説家の現実と出版不況の厳しさは分かっているつもりだが、作家になることは海の彼方の島にいた頃からずっと抱いてきた夢だったのだ。
作家になっても会社は辞めるな、とみんなが言う。この時代においてそれは正しいと思う。ただ、三十歳までしか生きられないと少し前まで信じていた私には、今後も時間がたくさんあるとは思えなかった。生活のために限られた時間を会社に奪われ続けることより、安定性に欠けるがより自由に自分の時間が使える個人事業主になることを、私は選んだ。二十九歳の誕生日を迎える直前のことだった。
二十代最後の年であり、独立一年目だった二〇一九年には大きな躍進があった。翻訳と執筆の仕事が思ったより増え、生活が赤字にならずに済んだ。作品の発表予定も狂わず、時間通りに世に出せた。また『五つ数えれば三日月が』が芥川龍之介賞と野間文芸新人賞のダブル候補になったことによって、少し知名度が上がった。若手作家にとってとてもありがたいことだし、これらの躍進のおかげで穏やかな気持ちで三十路を迎えられたと言うべきだろう。
本当のことを言えば、三十歳になる前に何かの賞を取って、この節目を迎えた自分へのプレゼントとしたかった。ここまで生き延びられた自分へのご褒美としたかった。が、それは結局叶わなかった。しかし、もう大丈夫な気がした。安泰ではない道を歩む宿命にある我が命、十年先や二十年先など依然として想像がつかないこの人生、行けるところまで行ってみようという気持ちになれたのだから。
私が死のうと思ったのは、私が幼くて、愚かしくて、弱かったからだ。今でも大人になりきれず、賢くなくて、強くないかもしれない。それでもほんの少し、ほんの少しだけ、世界に対峙する力を、生き延びるための力を、手に入れたと思う。
さよなら十代 もう戻れないさ
さよなら十代 あの頃がよくても
振り向けば 今より好きな僕たちはいない
さよなら十代
――中村中「さよなら十代」
さよなら、二十代。ようこそ、三十代。