うそつきの猫の話
文:井上雑兵
絵:フミヨモギ
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毎年、ぼくは四月になるとアオタンのことを思い出す。
正確には四月のはじまりの日――エイプリルフールになると、アオタンが「うそだよ」などと言いながらひょっこり帰ってくるんじゃないかと思ってしまう。
アオタンが死んでもう何年も経つけれど、きっとこれからもずっとそうなのだろう。
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アオタンというのは、ぼくの家で飼っていた雌猫の名前だ。
右目のまわりの大きなぶち模様が、まるで喧嘩で殴られてできた痣のように見えることから父さんがそう名付けた。
ぼくと姉さんは単にアオと呼ぶことが多かった。
ぼくとアオタンは同じ年に生まれ、ほとんど兄妹のようにして育った。
アオタンにはおよそ愛想というものがなく、人に懐くということをまったくしない猫だったけれど、ぼくが泣いているときだけはしぶしぶという感じでそばに寄り添い、ふさふさの毛につつまれたお尻をぴったりとくっつけてくれた。
仕方ないからぬくもりをちょっと分けてやるよ、と言わんばかりに。
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あの頃、ぼくはよく泣いていた。
主に、口が悪くて乱暴な姉さんによく泣かされていた。というか、ほぼ毎日泣かされていたと思う。
おやつを取られたり、お気に入りのおもちゃを壊されたり、ゲームのセーブデータを上書きされたり……そんな数々の暴虐にさらされて、涙ぐみながら鼻をすすると「うぜっ……泣いてんじゃねーよ」などと言われながら頭を小突かれ、またぼくは泣いた。
部屋のすみに小さく座り込み、涙でひりひりする目尻をこすっていると、膝の横が少しだけ温かい。
見れば、いつもの仏頂面をしたアオタンがぼくのすぐ横に座り込み、ほんのちょっとだけお尻をくっつけているのだった。
ぼくが手を伸ばし、そっとその背中をなでると、なにが気に入らないのか、アオタンは必ずにゃーと甲高く鳴いて、いずこかへと去っていく。
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姉さんが中学校の制服をまとい、ぼくが泣かされる頻度がこころもち少なくなったころ、少しずつアオタンの眠る時間が多くなっていく。
それに比例して、父さんがアオタンを病院に連れていく回数が増えていった。
ぼくが小学校を卒業して、中学に入る前の春休み。
三月の最後の日のことだった。
いつものようにアオタンを病院から連れて帰った父さんは、ぼくと姉さんに、とても真剣な声音で告げた。
アオタンが何年も病気を患っていること。
それは腎臓の病気で、今まで生きてこれたのが奇跡的なのだということ。
けれども、それがもう、限界なのだということ。
だから、せめて今夜はずっとそばにいてやりなさい、と父さんは言う。
ぼくは、そんなのは嘘だと思った。
いつものようにアオタンはすやすやと眠っている。さわると、ふわっとした丸い背中がゆっくりと上下していた。
こんなに柔らかで、温かいのだ。
息をしているのだ。
ぼくはこのときまでフィクションやニュースの中にしか死は存在しないのだと、心のどこかで思っていた。
家族が……大切な存在が、この世からいなくなる。
そんなことが自分の身に起きるはずがないと、無邪気に信じていたんだ。
だから、うそだよね?……と、ぼくは言った。
けれど、首をゆっくりと振る父さんの目はとても悲しげで、姉さんはうつむいて黙りこくったままだった。
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その夜、ぼくと姉さんは、猫用ベッドの上に寝そべるアオタンを見つめながらすごした。
もう餌を食べることもせず、好物の煮干しふりかけにすら見向きもしない。
一度だけ、弱々しい足取りで猫トイレに行き、またよろよろと戻ってきた。
そのまま寝床で静かに目を閉じ、こんこんと眠るその姿を見ていると、ぼくの目から自然に涙が流れ出した。
なんだろう、これは。
姉さんに意地悪をされたときに泣かされて出てくる涙とは、なにかが根本的に違っていた。
胸のあたりがやたら苦しくて、痛くて、少し寒い。
心がつぶれる、と感じた。
ぼくは自分の身体を両腕で抱くようにしながら、うずくまった。
こんなの、とても耐えられない、耐えられるわけがない、と思った。
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ふと、ぼくの足にやわらかくて暖かいものが触れる。
アオタンがいつの間にか寝床からやってきて、ぼくにお尻をくっつけているのだった。
アオタンはいつものように退屈そうで、いかにも面倒くさい言わんばかりの不機嫌顔をこちらに向ける。
そして……なんと言葉を発したのだ。
「やれやれ、いつまでも泣きべそかいてるんじゃないよ」
思いのほかしぶくて低い声に、ぼくはぎょっとする。
いま、なんか、まるでアオタンがしゃべったような……。
いやいや、たぶん姉さんのいたずらだろう、と思って横に座っている彼女を見る。
姉さんも驚愕に目を見開き、いましがた人の言葉を発したアオタンを呆然と見つめていた。「うそ……」と彼女の口から驚嘆の言葉が漏れる。
「ああ、全部うそさね。なにせエイプリルフールだからね」
アオタンはひげをひくつかせ、不機嫌そうに言った。
部屋の時計を見ると、もう日付は変わっていた。
たしかに今は四月一日だ。
いきなり流暢な人語をあやつりはじめたアオタンに、ぼくは驚きよりも嬉しさをおぼえる。
そうだ。
言葉をしゃべることができるぐらいなのだ。
そんなアオタンが、死んでしまうはずがない……。
――ねえ、アオはさ、いなくならないよね?
ぼくはそう、問うてみる。
死、という言葉はおそろしくて口にすることができなかった。
「そうさねえ……」
アオタンはどこか少し困ったような口ぶりで答えた。
「ああ、いなくなったりなんかしないさ。ずっと……」
そう言いながら、アオタンはゆっくりとぼくの膝の上によじのぼってきた。アオタンが人の膝に乗るなどということは、前代未聞のことだった。
ぼくはあわてて、膝から落ちないようにアオタンの横腹を抱える。
そのぬくもりは、冷たくなっていたぼくの身と心にじんわりとしみてくるようだった。
「どうでもいいけどあんたらねぇ……もう少し仲良くおしよ……いつもいつも、やかましくてろくに休めやしなかったんだから」
静かにアオタンが目を閉じる。
そして深く、伸びをするようにして大きく鼻から「すぴー」と音をたてて息をする。
「まったく……こんなしんどいのは……もう二度と、ごめんさね」
ふうー、っと長い呼吸を終え、そしてアオタンはその身の動きをぴたりと止めた。
ずっとさわり心地が変わらなかったふさふさの背中は、もう上下していない。
「うそ、アオ……ねえ、うそでしょ……ねえ」
ぼくは姉さんが泣いているのを生まれて初めて目にした。
ぼくたちは抱き合うようにしながら、永い眠りについたアオタンの前でずっと泣きつづけた。
父さんがやってきてぼくたちを優しく抱きしめ、朝がきて、いつの間にか眠ってしまうまで。
*
あの不思議な夜のできごとは、泣きつかれて眠ったときにみた夢だったのかもしれない。
それをはっきりとたしかめてしまうのがこわくて、それ以来アオタンのことを姉さんと話すことはなかった。
もしかすると、姉さんも同じ気持ちだったのかもしれない。
でも、ぼくの腕の中で冷たくなったアオタンが生き返るようなことはなかった。
だから、当たり前だけれど……アオタンはもうこの世にいない。
それでもぼくは、エイプリルフールの日が来るたびに、せいいっぱい下手くそなうそをついてみせた猫のことを鮮烈に思い出すのだ。
本当に、ひどいうそだ。
「いなくなったりなんかしないさ。ずっと……」
アオタンの言葉を思い返すたびに、ぼくはちょっと笑ってしまう。
だって、それは本当のことで、うそなんかじゃなかったのだから。
アオタンは、いなくなってなんかいない。
目に見えなくても、触れなくても、声を聞けなくても、姿やかたちがなくても……ぼくはずっとアオタンがくれたぬくもりをおぼえている。
あれから何年も過ぎた今でも、ずっと。
そしてきっと、これからも。
アオタンは、けっして、ぼくの中からいなくなってくれはしないんだ。
*
数年ほど前に大学の同級生と結婚した姉さんが、最近、猫を飼いはじめたらしい。
今度姉さんの家に遊びに行ったときに、ぼくはアオタンのことを話してみようと思う。
あのうそつきの猫について、いつまでも笑って語り合えるように。
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