>>vol.011


ところどころ箇条書きっぽくなっております
いつも以上にまとまりがなくてスマソ(′・ω・`)

― 矢花くんの能文を読んで ―

小説って、一度その物語として完成されて、それが世に出て人の手に渡って読まれた時、もう一度完成する感じがありますよね。完成というか、姿を変えるというか。ずーーっと変わり続けることができるよなぁと思います。

同じ文字の作品として、「詩」とかは。
種類は色々とありますが、大抵は見開きに収まるくらいの短いものですよね。
あれ、短いのになんか深いじゃないですか。「詩」として示されてるからそう感じるのかな?例えばですよ、

«きょうの

 ごはん

 いつもどおり»

っていう詩があったとしたら、
「普遍の日常への幸せを噛み締めてるのかな」とも、
「単にメニューに飽きたという気持ちをそれっぽく描いただけなのかな」
とも取れる気がして、勝手に深く考えちゃいますよね。
本当は意味なんか備わってないかもしれないことにも、
ただ自分が考えたくて(意味付けしたくて)やっているだけなのかもしれない。

矢花くんは考察したり想像するのが好きとのことですが、私もめっっっちゃそうです。禿同。
詳細に説明されているものを見ると、寧ろ受け取りづらい気すらしたり。しなかったり。自分の受け取り方です〜〜〜っと入れるのがより、分かるというか、馴染むというか。自分勝手かもしれないですけどね🤦‍♀️

(考える余地って、自分のためになる気もします。想像力を養ったり、その結果考えに柔軟性が生まれたりとか。
…などと考えていたら、ふとこのネタを思い出しました🖼
https://youtu.be/0VB9Jme5Rnk )

ラブソングの話では、
作り手の変化も要因のひとつとして考えられるかなーと思いました。
プロのアーティストが共感を意識して放っていた昔と、
一般人が、大衆受けなど気にせずに自分のしたい話を垂れ流していたら、いつの間にそういう例が広がって増えていった今と。

これを文芸作品で例えてみると、
昔:小説=架空のフィクション…この主人公が私だったら…
今:エッセイ=著者の体験・経験、変わらない事実…この人にはこんなことがあったのね…
こんな感じにも表せるかもしれませんね🤘

ここらで私の話をしますと、
前述の通り、私も考察したい派で、曖昧なものが好きです。
でも、人がつくったものには、どうしてもやはり'正解'があると思っちゃうんです。形としてはぼんやりしてても、何か思い描かれるひとつの答えが。いや答えすら曖昧でも、その曖昧を浮かべるきっかけはあるはずで。…って思うと、やっぱり寂しくなっちゃうんですよね。はあ、なんて勝手なんやわたしわ😊
そんなこともあり、私は自分の創作物がいっちばん好きなわけなのです。文章が。曖昧で、どうとでも取れて、つくるときも何も考えないように、答えのないようにしてて、(自分で書いてるので)それを知ってるから安心して読めて、いやきっかけは確実にあるとしても、自分のことだから、いっか、って。
結局無類の自分好きという話になってしまいました。事実〜。矢花くんは自分のこと好きですか?

ものの解釈の仕方ってその人の諸々が反映されるよね。と思います。
#矢花黎に物申す 見るの楽しいんですよ。姫_痺愛はこういうふうに受け取って、そこからこういう風に考えたのかーとか。いろいろ見えてくるものがあるなあと思うんです。
そんな体験ができるところも含め、矢花くんのブログが大好きです。本当に。いつもありがとうございます‪。


『I know』は、副題も含め、
アイドルの矢花くんと、それを見る矢花くんのことかなと思っています。それより多くは語らんとくけど…'正解'に触れるのがまだこわいので…でも、


" '私'全部知ってるよ 本当'を'ね "



((なんつって!))


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