いのちをつなぐ(前編) ーLFCコンポスト、誕生の裏にあるストーリー
無造作につかんだ堆肥を手のひらにのせて、確かなものを掴んだ目で話し始める。受講生たちは、彼女の言葉を拾おうと聞き耳をたてる。
生ごみ堆肥をつかった菜園講座のこの日の参加者は、若い人から70歳以上のご夫婦まで。その誰もが心を鷲掴みにされている人物こそ、堆肥づくり歴50年以上を誇るNPO循環生活研究所の会長であり「のぶばあ」こと波多野信子。私の母である。
活動をスタートさせた21年前にコンポストの講師に誘って以来、負けん気が強くて、人見知りで、寂しがり屋の性格の彼女と共に、道を切り拓いてきた。
父の余命宣告
活動を始めたきっかけは、彼女の夫、つまりは私の父が肝臓病になったことだ。医師から余命3カ月と宣告された。
家族会議の末、選択したのは入院ではなく自宅での食養生だった。大学時代に栄養学を学んだ私は食事担当を引き受けた。無農薬野菜を手に入れるため、生まれたばかりの娘を背負って、市内中を2時間かけて探し周った。だが、やっと手に入れた無農薬野菜は鮮度が落ちており、しかも高価だった。食べさせないと翌日死ぬかもしれないという焦りと、安全な野菜が手に入らない世の中に疑問を抱き、怒りでいっぱいになった。なぜこんなに手に入らないのか。なぜこんな世の中になったのか。
食事の基本は玄米菜食とし、毎食の献立はほぼ同じ。全て無農薬野菜で調味料も無添加である。また、砂糖を排除した。皮付きのごぼう、人参、葉付大根と干し椎茸を煮だした特製野菜スープも常備した。父は元気な時は10分くらいで、体調が優れない時は1時間以上かけて食することもあった。そんな日が続くと、小豆などで食べやすいおやつに力を入れた。
この食養生と父の努力のおかげで、2年間延命できた。ほんとうに、ほんとうにあの時ほど命を大切にとりあつかったことがなかった。貴重で、暖かくて、切ない時間だった。
父の葬儀は晴天の中、自宅で執り行った。交通機関が不便な郊外の住宅地にも関わらず、500人を超える参列者が集まった。葬儀が終わった後も知らない人が次から次へとやって来て涙するのを見て、私の知らない世界の大きさに想いを馳せた。
東京水産大学を卒業後、福岡市の中学校の事務員に勤務。下宿先のお向かいに母が住んでいた。母は背が高く、当時の163cmは目立っていたようだ。片田舎でのよそ者の色白の青年と、のっぽ女子との恋愛は三苫村では噂になったとか。
母のハートを射止めた父は、家持でないと結婚させないという祖父の要求に応え、借金をして海岸近くのやせた土地にマッチ箱のような一軒家を建て、無事結婚した。そこからのお金がなかった時代については、母がよく昔話をしているが、子どもから見ても、お気楽な父とお金を必死で稼いだ母の印象が残る。
父は安定した毎日を送り、自分に与えられた時間をフルに使ってよく映画を観ていた。高校生の時に電車代を節約して歩き、映画代に充てていたという話を母から聞いたことがある。ことさら本を大切にし、お小遣いのほとんどをそれに遣っていたようだ。通勤用、就寝用、職場の休憩用、お風呂用の四冊を同時に読んでいた。お風呂の脱衣所には本に加え、英字新聞と英和辞典があった。
日頃は、父とは対照的な現実主義の母に私は鍛えられていたのだが、こちらも相談ができるタイプでは全くなかった。そんな状況で私の一番の心の拠り所は父だった。すさんだ気持ちの日も、横にいるだけで癒された。社会人になって初めてもらった給料以来、毎月必ず父の好きなワインと食べ物を買って帰った。父のニヤッとする顔を見たかったからだ。
父には夢があった。小説家を目指していたのだ。夜中に目が覚めると、長い廊下の突き当たりの部屋で執筆している後姿が見え、今でも鮮明な記憶として残っている。
原稿は人目に触れないよう常にしまわれており、執筆の志を悟られたくない意思が家族には伝わっていたため、夜中の後姿は見てみぬふりをし、原稿関係のことは絶対に話題にしないよう気をつけていた。知りたがりの母がこっそり読んでひどく怒られていたのも、聞いていないふりをした。
いくつかの賞にも応募していた。編集者から電話がかかるかもしれないと、母から言いつけられていたが電話が鳴ることは最後までなかった。そして夢見ていた早期退職も叶わなかった。60歳で退職し、終日執筆できることを楽しみにしていた矢先のガン宣告だった。
私の原点
闘病中の最後の3ヵ月、父は気分が優れない毎日を過ごしていた。お天気の日は廊下に布団を敷き日向ぼっこをしたり、気分転換に掟破りをして、一緒に甘いものを食べた。
いよいよ、民間療法の有名どころにも「覚悟してください」と言われ、自宅に帰って泣き続けた。心が張り裂けそうでも、父の前では涙は我慢した。
はじめて父が私に弱音を吐いた日があった。
「長すぎるトンネルの出口が見えない」「夢をみては目が覚める」「暗い映画は観れない」「枕元の黒い置物は部屋から出してくれ」。そしてある日、いつもの買い物を終えて帰ると、大切にしまっていた原稿を裏庭で燃やし始めた父の後姿を見て私は石になった。
余命を諦めた決心を考えたら息もできない。これまで家族にも公表してこなかった胸の中の大事な夢。残された時間が幾ばくも無いことを私は知っていたし、父も知っていた。その父の希望を叶えるべきか、自分の希望を叶えるべきか。
これは父の決意だったのだ。大好きな父の尊厳に、私は口出しできなかった。声をかけずに泣きながらその場をそっと離れた。悲しみの後姿が瞼から離れず何日も何日も泣いた。今でも涙が出る。
24年も経つのに、わずかに残った原稿を未だに読んでいない。原稿を焼いているあの姿が目に焼き付いているからだ。
父は原稿用紙の上で、どんな文章をつくりどんな世界を展開していたのだろう。私は登場したのか、しなかったのか。世の中をどう見ていたのか、知りたかった。なぜ小説家を目指すようになったのか、どんな小説家になりたかったのか、父の口から聞いてみたかった。勇気を出して、聞いておけばよかった。
寄る年波のせいか、父を突き動かした何者かが、自分のルーツであるかのような気がしている。
後編につづく
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