【前編】ボカロ文化と批評のあり方(についてのいくつかの所感)
この記事は、ボカロ文化についてのいくつかの批評を(批判的に)検討することで、ボカロ批評の現在地や課題を浮かび上がらせることを目指して執筆したものです。(2024/02/10追記)
トンデモポップ論(への反論)
昨年12月にちょーく氏が発表した「カスによるカスのためのトンデモポップ論」は、一部のボカロ曲のリスナーの間で話題になりました。
この記事の主張を要約すると、次のようになるかと思います(以下、初出の引用は太字で表記します)。
1.lumoの楽曲に端を発する「トンデモポップ」というタームは「特異な表現や奇抜な曲の進行、メロディなどの要素を持ちつつもポップスとして成立している音楽」に付けられるタグである。
2.しかし、原口沙輔「人マニア」や同作者「ホントノ」の大ヒットと、これらを「トンデモポップ」と形用する言説により、この2曲と類似する(時に意図的に模倣した)音楽性を指すジャンル名として人口に膾炙する可能性がある。
3.トンデモポップはあくまで「幅広い音楽性を持った音楽を内包するタグ」であり、音楽ジャンルであってはならない。また、それは「流行にかかわら」ないものであり、「過去流行した何らかのテンプレートをなぞるボカロ曲」を「トンデモポップ」と形用すべきではない。
私もこうした主張には概ね同意するところですが、一方で同記事の音楽用語の運用や音楽的な解釈においては気になる箇所がいくつかありました。
ちょーく氏は、lumoをはじめとした一部のトンデモポップ楽曲は「エレクトロポップ、テクノポップ、フューチャーポップとして解釈できる」とし、lumoのインタビュー記事を参照したうえで、「2000年代にゲームミュージックや音楽シーンで見られるポスト渋谷系(ネオ渋谷系)のFuture Popや渋谷系テクノポップの曲調をVOCALOIDの楽曲として拡張しつつもゆるく受け継ぐものである」と主張します。
確かに、lumoは「渋谷系」からの影響を述べています。しかし、実際のインタビューを確認すると、それはあくまで(一時期の楽曲における)コード感についてのやり取りのなかで登場した名前であることがわかります。
試しに、ちょーく氏の記事で合成音声音楽シーンにおけるトンデモポップの様式的起源とされるlumo「vocandroid」と、lumoが「渋谷系」からの影響を述べた「QFT」を聴いてみましょう*1。
lumo - vocandroid(2011)
lumo - QFT(2013)
確かに、特に後者における(一時的なものを含む)転調を多用したコードワークは(具体的な類似性は別として)Cymbalsやwacとの共通点を見出すこともできるでしょうし、「奇抜な曲の進行、メロディ」とも言えるかもしれません。しかし、こうした要素は本当にlumoの楽曲における「トンデモポップ性」の核心なのでしょうか?
ちょーく氏の記事に倣い、トンデモポップタグが付いた他の楽曲もいくつか聴いてみましょう。
あえる - あかつきや春巻丼(2016)
部分的な変化こそありますが、基本的には極めてスタンダードなコード進行の繰り返しです*2。この楽曲における「トンデモポップ性」は明らかにコード進行ではなく、エレクトロニクスとバンドサウンドが溶け合った個性的なサウンドデザインや、休む間もなく反復されるポップなメロディ(とシンプルなコード進行やビートの組み合わせ)にあります。
みみみエナ - 1センチ(2015)
冒頭のピッチシフトされた声ネタ、複雑なリズムでチョップされたコード、そして38秒から入ってくるヒップホップ的なループ感のビート。この楽曲において、そもそも「コード進行」や「機能和声」のような概念を持ち出して分析することは適切ではないでしょう。
もちろん、視聴者が自由に取り外し可能というニコニコ動画のタグの仕様上、「トンデモポップ」の定義はとても一般化できるものではありません。ですが、こうした例を踏まえたうえで改めてlumoの楽曲を聴いてみると、そこにはコード進行という側面では捉えきれない様々な表現――初音ミクがエラーを起こしたような響きのグリッチ、BPM200前後で多様な音色が入り乱れるサウンドデザイン、詰め込まれた楽曲展開、etc…――があることがわかるでしょう。
lumo - 逃避ケア(2012)
ちょーく氏もこの点については自覚的です。ちょーく氏はOSTER projectやkzなどの初期ボカロシーンで活躍した作家を参照したうえで、トンデモポップとの違いを次のように整理しています*3。
本当にそうでしょうか? 確かに、lumoが影響を公言するCymbalsは「ポスト渋谷系」とよく括られますし(フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴなどに代表されるオリジナルの「渋谷系」のムーブメントとは区別されます)、wacの一部の楽曲は渋谷系~ポスト渋谷系に括られるアーティストたちからの影響を感じさせます。
常盤ゆう - カモミール・バスルーム(2001?)
また、確かにwac、Cymbalsの沖井礼二、Plus-Tech Squeeze Boxらの楽曲はコナミの音楽ゲーム『pop'n music』に収録されています。しかし、lumoの楽曲に見られる「音数が多」く「電子音楽」的という要素が渋谷系の文脈にあるものとは限りません。例えば、エレクトロニック・ミュージックの分野においても以下のような楽曲が存在します。
Max Tundra - Which Song(2009)
Akufen - Deck The House(2002)
SjQ - pico(2009)
さらに言うと、やろうと思えばここまで遡ることだって可能なわけです。
White Noise - Here Come The Fleas(1969)
作者が実際にどのような音楽に影響を受けたのか、どのような文脈を踏襲して楽曲を作ったのかは得てしてブラックボックスです。また、作者の意志が絶対とは限りません。浅学ゆえに軽い言及に留めますが「テクスト論」という考えもあります。リスナーは作者の意図の外で、様々な視点から鑑賞することができます。ネットミームの「公式が勝手に言ってるだけ」もあながち馬鹿にできません。
一方で何かを論じる場合、やはり整合性は求められます。今回の場合、lumoがCymbalsなどのコード感から影響を受けていることを根拠に、同じく渋谷系の流れを汲んだ「フューチャーポップ」(おそらくほぼ死語です)であるPlus-Tech Squeeze BoxやSonic Coaster Popなどとの関係に持ち込むのは、論理的な強度に欠けるように思います。端的に言って、「トンデモポップ」とは(その要素が一部流入しているだけであって)初めから「渋谷系」の文脈を軸に発展したものではなかったのではないか*4。
トンデモポップの今後に関するちょーく氏の問題意識は、現在のボカロシーンにおいて極めて有効なものだと思います。渋谷系やフューチャーポップを持ち出したのも、トンデモポップのオルタナティブ性を強調するためだと理解できます。ですが、こうした指摘は渋谷系を大きく扱わなくとも十分に有効であるように思います。
また、ちょーく氏は「人マニア」、「ホントノ」、そしてキツネリ「cicada」をそれぞれ、ハイパーポップとEDM、ドラムンベース、ボサノヴァにカテゴライズしています。「ホントノ」を例にとり、この点を少し検討してみましょう。
原口沙輔 - ホントノ(2023)
確かに「ホントノ」のドラムパターンはドラムンベースのドラムパターンと似通っています。一方で、ハイパーポップ以降を感じさせるエクスペリメンタルなサウンドデザインと奇天烈なギターリフの組み合わせは、ニューウェイヴやスカパンクに接近した近年の100 gecsを彷彿とさせます。
100 gecs - Doritos & Fritos(2022)
また、ワブルベースにはColour Bassで聴かれるようなエフェクトがかかっているように聴こえますし(0:45からがわかりやすい)、Bメロにアクセント的に入る音割れしたキックはハードコアテクノの特徴的なサウンドです。ちょっとこの辺は自信ないですけど。
何が言いたいか。現代のポピュラー音楽においては、余程強い意志を持って制作しているか、そのジャンルのオリジネーターであるか、余程包摂的なジャンルでない限り、ひとつの音楽ジャンルだけでひとつの楽曲を説明し切ることは難しいし、「トンデモポップ性」の強い楽曲ともなれば尚更だということです。lumoの楽曲も冒頭で引用したようにエレクトロポップにカテゴライズすれば確かに収まりはいいですが、それでもその枠からはみ出してしまう要素が多くあるはずです。
ここまで見てきたことを踏まえたうえで指摘できる最も重要なこと。それは、ちょーく氏は「トンデモポップはジャンルではない」と主張しているにも関わらず、同じくジャンルであることを度々否定され、また少なくないアーティストがカテゴライズされることを拒んできた「渋谷系」や「ハイパーポップ」をジャンル名として使用していることです。関連する書籍からいくつか引いてみましょう。例えば音楽ナタリー『渋谷系狂騒曲』は、次のように始まります。
同書に収録された、HMV渋谷の元マーチャンダイザーであり「渋谷系の仕掛け人」とも呼ばれた太田浩氏へのインタビューには、次のような記述もあります。
また、『ユリイカ』ハイパーポップ特集号の巻頭に当たるtomad、~離、namahogeによる座談会では以下のような発言があります(いずれもtomadによるもの)。
ボカロ曲を日常的に聴いている人ならば、次のような例えがわかりやすいかもしれません。ボカロ曲にはwowakaやトーマやかいりきベアのような音楽性の楽曲が確かに多いが、決してそればかりではないし、ましてや「ボカロ」という言葉がそれらの音楽性を意味するジャンル名であるはずがない。「ボカロ」という括りはあくまでも合成音声を使った楽曲の集合体であり、ムーブメントであり、シーンである――ボカロには「合成音声を使った楽曲」というかなり明瞭な条件がある分、完全に同じ扱いはできませんが、雰囲気だけでも伝わるでしょうか*5。
もちろん、これらの言葉に全く音楽性が含意されていないとは言いません。「渋谷系」に括られることのあるいくつかのアーティストの楽曲からは、積極的にサンプリングや過去の音楽を参照する姿勢などに一定の共通するムードを見出せますし、「ハイパーポップ」にしても、ディストーションやピッチシフトなどのエフェクトを使用した人工的で極端なサウンドを特徴として挙げることもできるでしょう。しかし、やはり定義が非常に曖昧でカテゴライズを拒む当事者がいる以上、用心するに越したことはないように思います。
「トンデモポップ」というボカロシーンのオルタナティブな場所で存在感のあるタームを捉え、議論の俎上に載せようとするちょーく氏の試みは非常に価値のあるものだと思います。それゆえに、今後ちょーく氏の記事が参照され続けることを考え、今回のような指摘に至りました。
後編
脚注
*1 lumoの楽曲に付けられたことがトンデモポップというタグの起源だとすることにはデータ的なエビデンスが欲しいところですが、現実的には困難だと思います。
*2 Aメロは通称「王道進行」、サビや間奏はその末尾がⅠsus4-Ⅰに変化。イントロはその折衷です。
*3 そもそもOSTER projectやkz、あるいはCAPSULEやPlus-Tech Squeeze Boxを「渋谷系」と一括りにするべきなのかといった議論もあると思いますが、私の知識ではそこまでは扱えませんでした。
*4 「デンパラダイム」概要欄の「アキバ・ストリート vs シブヤ・ストリート」という文章は渋谷系へのアプローチを想起させます。実際、1:23からのパートはCymbalsなどとの類似性を指摘できるかもしれません。
*5 「ボカロ曲」は(おそらくほぼすべてが)合成音声を使った楽曲ですが、逆に合成音声を使った楽曲のすべてが常に「ボカロ曲」に括られるわけではないでしょう。例えば、初めてコンピューターが歌ったとされるIBM 7094による「Daisy Bell」(1961)はボカロ曲でしょうか? それはカバーであってオリジナル曲ではない? ではRadiohead「Fitter Happier」(1997)は?
主な参考文献
音楽ナタリー『渋谷系狂騒曲: 街角から生まれたオルタナティヴ・カルチャー』(リットーミュージック, 2021)
『ユリイカ 2022年4月号 特集=hyperpop -A. G. Cook、Charli XCX、100 gecs、そして…加速する音楽のゆくえ-』(青土社, 2022)
ユービック「テクノ歌謡」研究チーム『「テクノ歌謡」ディスクガイド』(扶桑社, 2008)https://www.cinra.net/article/interview-201907-nomiyabose_nktkka
柴崎祐二『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす 「再文脈化」の音楽受容史』(イースト・プレス, 2023)
黒田隆憲「「渋谷系」とはなんだったのか? 野宮真貴×Boseが語り合う」(CINRA, 2019)https://www.cinra.net/article/interview-201907-nomiyabose_nktkka
市村圭「祝・『ポップンミュージック』25周年! “渋谷系”との接続など、音楽的功績や筐体の歴史を改めて振り返る」(Real Sound, 2023)https://realsound.jp/tech/2023/09/post-1444798.html
Hercelot「PSBのCARTOOOM!の感想」(2019)https://note.com/hercelot/n/n413ac186fa35
藤城嘘「ポスト渋谷系にみる、音ゲー楽曲と邦楽シーンの影響関係(中半)」(2015)https://lie-fujishiro.hatenadiary.org/entry/20150323/1427078941
namahoge「パンデミック下に狂い咲く、破壊と越境の音楽「hyperpop」とは何か?」(2021)https://note.com/namahoge_f/n/nb757230fd013
Hylen「【解説】Colour Bassの音作りについて Part1【プラグインなど】」(2022)https://hylenlab.info/archives/3113