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【映画紹介】キリル・セレブレンニコフ「チャイコフスキーの妻」 歴史に翻弄された情愛の剥がれないラベル化

こんにちは。ギルドです。
東京国際映画祭、東京フィルメックスの後に京都ヒストリカ国際映画祭に参加しました。

そこで鑑賞したキリル・セレブレンニコフ最新作「チャイコフスキーの妻(原題:Tchaikovsky's Wife)」について感想をまとめるという記事です。

■概要

19世紀を代表する作曲家、ピョートル・チャイコフスキー。かねてから同性愛者だという噂が絶えなかったが、自身の人生や世間からの声を変えることを決意する。そして、彼に求愛する若きアントニーナと結婚するが、すぐに限界を迎え…。精神的な苦痛から狂っていく妻・アントニーナを熱演するのは注目の女優、アリョーナ・ミハイロワ。第75回カンヌ国際映画祭(2022年)・コンペティション部門、正式出品作品。

https://historica-kyoto.com/films/9998/

スコア:
97/100


■感想

大傑作!
ピアノ協奏曲第1番、交響曲第6番「悲愴」、白鳥の湖、くるみ割り人形… 等で有名なピョートル・チャイコフスキーに関する伝記映画で、彼に求婚したアントニーナ・ミリューコヴァとの結婚〜離婚までの行く末にフォーカスされた作品である。

元々、チャイコフスキーの楽曲は学生時代からよく聴いている馴染み深い人で、同性愛者である話は前から聞いていました。
そんな彼の結婚生活を「インフル病みのペトロフ家」のキリル・セレブレンニコフが描くと聞いて「あの禍々しさがどう反映するのか?」と楽しみにしていた作品です。

実際に鑑賞してみると凄まじく複雑な映画で、伝記映画としての多面的な苦しさを持った人間ドラマの暗さが強い。
そこに「インフル病みのペトロフ家」の作家性が注ぎ込まれる事で
(1)デヴィッド・フィンチャー「ゴーン・ガール」の狡猾で徐々に追い込む「女性の怒り」を複雑にして強くしたような…
(2)今泉力哉「愛がなんだ」の愛の方向性の違いを5段階くらい強烈にしたような…
今までの男性優位社会を扱った映画と何かが違う新次元な映画でした。

伝記映画という歴史を一部切り取ったリアリズムな映画であるが、ストーリーが展開していくにつれて妻アントニーナの目線に翳りが見え始め、見える世界が段々とおかしくなっていく。
まるでゲーム「サイレントヒル」でいう「表世界」から「裏世界」に徐々に変遷し、そこに潜む男性優位社会・男根主義がアントニーナの「情愛」に大きな変化を齎す。
その姿を描き、歴史的な悪女と言われる所以を立体的に描くのが素晴らしかったです。


前作「インフル病みのペトロフ家」が明確なストーリーラインが存在しない現実と虚構がカクテルのように混ざって静かで薄暗い作品だとするならば、本作「チャイコフスキーの妻」はメロドラマある明確なストーリーラインを引きながらも現実から虚構へ徐々に乳化していくアッパーで薄暗い作品!て感じがしました。
伝記映画というジャンル映画の型枠を作って、「国外を出たし友人から資金援助も貰ったし俺は自由に映画を撮るぞ!」という意気込みを感じさせる中盤でしたが後半に進むにつれて「やっぱりペトロフ家の人だ」と思わせる演出・世界観の構築に圧倒される、そんな作品。


ちなみに結婚生活で病みに病んだこの時期に「白鳥の湖」や「ヴァイオリン協奏曲」を作っていたらしい…

(1)白鳥の湖


(2)ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35


■みどころ①「アントニーナとの結婚生活の破綻…運命は始めから予期されていた?」※ネタバレ有

映画は1893年、薄暗い淡色じみた世界からスタートする。
裁判所と思われる場所でアントニーナは裁判官に文言を必死に考える。
その直後にアントニーナを見かけたチャイコフスキーは「お前なんで来てるの?」「くだらない茶番やってるの、あほくさ」等と辛辣な言葉を飛ばし、失意のアントニーナは外に出る。
その時にアントニーナは空を見上げ、その周囲に黒フェルトハットをした黒スーツの群衆が彼女を避けるように流れていく姿を見下ろすように俯瞰したショットで映すのだ。


本作ではギャスパー・ノエ「CLIMAX」序盤、中盤クレジットシーンのような真上から俯瞰して撮るカメラワークを象徴的に映していく。映画の前半でも黒フェルトハットの群衆、貧民たちの中にポツンと佇むアントニーナを真上から見下ろすカメラワークがあるが、そこに彼女の抱く孤独な感情・特異なポテンシャルを秘めた才覚のオンリーワンである事を刻む。
この意識的な演出と本作の世界観である薄暗い淡色じみた映像の組み合わせだけで本作の眼力の強さを実感させて良かったです。
特に「オンリーワンであること=アイデンティティを確立する女性像」という事の必死さ・狂気については映画の中で重要な要素として効くので、なおさら演出において強烈な印象を与えていると感じました。


時代は1872年に戻りアントニーナはパーティにてチャイコフスキーの和気藹々とピアノ演奏する姿を遠くから覗いたり、音楽について勉強したいとアナスタシア・フヴォストヴァに伝え、友人経由でチャイコフスキーに紹介される。
音楽院でたまたまチャイコフスキーが演奏している姿を遠目から観るアントニーナは中々に可愛い!が、それも束の間でチャイコフスキーは扉をパシャリと閉めてしまい壁を作ってしまう。
その後、アントニーナはチャイコフスキーへ熱烈な求愛をし続け、アントニーナ家に訪問したタイミングでチャイコフスキーから「女性の事を愛したこと無いから熱い愛は無理だけど、静かな愛なら結婚いいよ」とOKを貰い、アントニーナは不動産の売買等で彼の経済的支援をしていく想いで結婚生活が始まっていくが…


チャイコフスキーは前述の通り同性愛者である事で有名である。
史実ではチャイコフスキーが求愛を受け入れた理由は明らかになっていないものの、劇中では「条件付きならいいかもな」的な感覚でアントニーナを受け入れている。
けれどもチャイコフスキーの友愛とアントニーナの情愛のベクトル量がそもそも違う事で生まれる行き違いが随所に展開され、その摩擦が目配せやハエといった小道具で展開される。
重要なシーンでチャイコフスキーのでこにハエが止まってそれを払ったり、結婚で大切な指輪をはめるシーンでチャイコフスキーだけなぜか上手くはまらなかったり、アントニーナとチャイコフスキーのキスでは一瞬であるが目線が外れる…など、一見すると幸せな光景に意図的なノイズを仕込ませているのだ。
まるでバラに纏わり付くハエのような関係を象徴するように展開され、「同性愛を隠す偽装結婚に近いもの」「結婚した事で徐々に顕になるアントニーナの毒親環境で生まれた本性」によって悲劇的な結末がノイズを通じて始めから予期されるライティングへ見事に昇華していて素晴らしかった。

実際、史実でも新婚旅行でチャイコフスキーは妹に妻の毒親環境にいる事をこのように述べている。

その地で彼らと共に過ごして3日が経つと、妻の耐え難い面の全てが完全に異様な一家に生まれたことによるものであるということがわかり始めた。母親は何時でも父親と言い争っており、父亡き今、いかなる手段を使ってでも彼の想い出を悪く言うことをいとわない。ここは母親が自らの子ども幾人かを「嫌って」(!!!)いる家庭であり、姉妹の間ではつまらない喧嘩が絶えず、一人息子はすっかり母親及び姉妹全員と仲たがいしてしまっているなどなどである。

Wikipedia「アントニーナ・ミリューコヴァ」より

以上より本作は伝記映画というジャンルに則って展開されるが、随所に散りばめられたライティングが明快ながらも素晴らしく、そこから齎される愛情の均衡の取れなさが史実で分かっていても緊張感あって良かったです。

■みどころ②「男性優位社会がアントニーナの情愛を剥がせないラベルに変えてしまった」※ネタバレ有

チャイコフスキーとアントニーナとの結婚生活は徐々に崩壊し始めていく。
経済的支援をするつもりだった土地が思った以上に売れなくてオペラが完成しないことにチャイコフスキーは絶望を覚えたり、家政婦に対してミスった事で癇癪を起こしてお前クビにするぞと脅したり、接待でチャイコフスキーがアントニーナを立てた事で隙自語して場が白けたり、作曲をしているのにセックスを求めようと誘惑する姿にチャイコフスキーは嘔吐して逃げ出す…という散々な始末である。
結婚生活が散々でチャイコフスキー自身もうつ病になっている事を知った弟含む関係者たちはアントニーナを呼び出して「チャイコフスキーは宝物みたいなものだから別れてくれ」と一蹴してしまう。
そこから1877年、史実ではチャイコフスキーは弟のアナトーリーの連れ添いの元でペテルブルクに逃れ、アントニーナは女子供しかいない部屋でピアノを弾いて注目を集める…といった別居生活に近いものを行う羽目になる。
そこから離婚に向けて様々な力学が展開されるが…


本作は中盤から男性優位社会・男根主義が支配し始めていく。
中盤まではバラとハエの行く末を追っていたが、そこにバラの飼育員たちが綺麗なバラを護るためにハエを追っ払う、という構図で展開されるのだ。
その真骨頂にあるのが中盤に存在するアントニーナへのお見合提案だろう。
チャイコフスキーにゾッコンなアントニーナの前に4人の筋骨隆々な男たちが並ぶ。お見合い企画者はチャイコフスキーから離れさせて「貴方に似合う四銃士を連れてきたわよ」と告げる。それに対してうんともすんとも言わないアントニーナに対して「外見だけじゃ分からないわよね。それならば…」ととんでも無い事を男たちに課すのだ。
ここで強調される男根と男根主義がリンクし、男と女の役割を線引しようとする力学が働き、衝撃的な出来事が終盤のアントニーナの幻影に反映させるのだ。
そこのライティング、主題と世界観のリンク性が素晴らしくて白眉だと感じました。

本作が素晴らしいのは二者が求めるラベルが段々と剥がせない程に強烈になる様を見事に描いている所だと思う。
チャイコフスキーには芸術家なりのコンフォート・ゾーンへのデリケートさに干渉されることの不安・苛立ち、友愛で静かな愛で十分の筈が作曲の領域にまで侵食し息苦しさ…といったペースを狂わす要因から逃げたいラベルが存在する。
アントニーナは一目惚れして経済的辛さをなんとしてでも助けたい、天才的な人間に釣り合っていないんだから私が頑張らねば、結婚したいのではなくチャイコフスキーを愛したい…という「チャイコフスキーの妻」に拘るラベルが存在する。
ここに
(1)偉大な作曲者の芸術を護る正義の名の下に男性優位社会に翻弄・型にはめられそうな女性を描く
一方で
(2)支えたい・愛するという師弟愛・情愛が男性優位社会の政治的操作とアントニーナの毒親環境の反芻によって「自分の愛が足りないからこうなる」「最終的なジャッジは神のみぞ知る」…なヤンデレ的な愛情に進化する様を描く
という2本軸で展開していく「沼」のような存在を描ききるのが素晴らしかったです。

しかも、そういったストーリーテリングもさながらライティングにおいても素晴らしい。
前作「インフル病みのペトロフ家」にあった現実と虚構が地続きになる片鱗が徐々に見え始めてサイレントヒルの「裏世界」のような世界が現出するのも、アントニーナの目線で語る映画だからこそアントニーナの心情・バイアスに変化を齎す。
チャイコフスキーの実存によって、現実に溶け込むように虚構が照度という形で現出するがチャイコフスキーの死亡でバランスが崩れて一気に虚構が支配する。
チャイコフスキーは存在しないことの喪失するが、チャイコフスキーの実存によって受けた男性優位社会のトラウマは虚構の中で現出して滞留する…その描き方にグロテスクさ・恐怖を覚えました。

■総評「男性優位社会と芸術家に翻弄されて生まれる狂気的な決意」

歴史的悪女と言われたアントニーナとチャイコフスキーの関係の変化を追った本作だが、京都で先行鑑賞して良かったと言える映画でした。

とにかく構成が素晴らしく、序盤から終盤にかけて温度感がおかしな方向に進む展開が良い!
映画序盤は伝記映画として歴史の再現をしたデザインやメロドラマ多めな伝記映画としてのツボを抑えている。
けれども、中盤から進展する
・男性優位社会の被害者の一面
・芸術家のセンシティブな悩み
・精神的な孤独、毒親という存在が強い反発
・審判は社会ではなく神であるという盲信
…によってチャイコフスキーへの愛情がより強固になる狂気へ発展する。
色々な要素がまじり、キリル・セレブレンニコフの薄暗い虚構混じりな世界観が顔を出し始める。
そして、アントニーナの目線で見える世界は少しずつ変化していき、チャイコフスキーの退場というアントニーナの心のバランスが崩れたことで男性優位社会で受けたトラウマが現出するのだ。
まるでエドガー・ライト「ラストナイト・イン・ソーホー」のような狂気的なダンスに発展し、大雨と霧に包まれた街からアントニーナが消えていく姿に圧倒されました。

「ローマは一日にして成らず」ならぬ「悪女は一日にして成らず」を体現した一作であり、その背景には毒親の環境、男性優位社会故の役割のラベル化、思い通りにならない情愛…の複数の力学が摩擦・拗れていく。
そこから「悪女」にならざるを得ない悲しい顛末に強烈な主題が込められていると感じました。
これってロシアの芸術・文化がチャイコフスキーからマルチユニバースに進む事と現代社会の男女平等・家庭の諸問題と上手く重ね合わせられる主題ではないだろうか?

チャイコフスキーとアントニーナの歴史の切り取りから様々な主題を同時に堪能し、現実と虚構が徐々に乳化した先にある
「愛情の差が齎す拗れ」
「ラベルに拘る当時の歴史ならではの生存バイアス」
「行き違いの愛は時に狂気に発展し、善意が破滅にすげ変わる非常さ」
をぶつけた強烈な映画でした。


似たような映画は前述した通りだけど、一番近いのは今泉力哉「愛がなんだ」かなぁと思いました。その強化版というか…スケールがでかいというか…そんな映画です。
あとは週刊ストーリーランドで放送されていた「謎の天才腹話術師」をも彷彿させるかも。
この話も正体不明の魅力的な腹話術師に敬愛する女性の話だが、ストーリーテリングの情愛から狂気に変貌する姿は本作に近いものを感じる。


もし日本公開されたら刺さる人は数多くいそうなポテンシャルを持っているので、是非鑑賞してみてください!




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