「大好き」を貫きたいその気持ち
突然、虹ヶ咲のアニメを見返したくなって、数日。まだ途中までしか見られてないんですが、どうしてもこの時点でちゃんとブログに書いておきたいエピソードがあったので、思い立ってこうして書いています。
その肝心なエピソードが、1期3話の『大好きを叫ぶ』です。この前見た直後に、簡単に感想は呟いていたんですけど、つい先日今日移動中にせつ菜ちゃんのソロ曲『CHASE!』を聴いていたら、なんか言葉にしたい自分の気持ちが沢山出てきました。
それを思いつくままに1つずつメモに書いていく中で思った以上に今の僕がこの物語を受け取った時に、彼女に対して共感する部分がめちゃくちゃあるなーと。
正直なところ、初めて虹ヶ咲のアニメを触れた時はあまりここに自分の気持ちは重ならなかったんです。
でも、この1年、スクールアイドルを通じて、色々な好きなものと自分なりに向き合ってきた自分の気持ちを振り返ると、せつ菜ちゃんが抱えていた「大好き」に対する葛藤とその先で見つけた「大好き」を貫くという答えを掴んだ姿にもの凄くビビッとくるものがあって。それを言葉するなら、「優木せつ菜」というスクールアイドルが向き合おうとしている「大好き」に対するその姿勢にもう共感しかないという事です。
そんな『大好きを叫ぶ』の中で、好きなシーンが3つあります。
1つ目が、かすみんとの衝突から、自分が貫こうとした「大好き」が逆に誰かの「大好き」を否定してしまっていた事に気付いて、スクールアイドルの道を閉ざそうとしてしまうシーン。続く、2つ目は、侑ちゃんの言葉を受けてもう一度自分の「大好き」を貫こうと決意するシーン。そして、最後はその決意の一歩として披露された『DIVE!』です。
それぞれのシーンを通じて、「大好き」を貫こうとする彼女の想いに凄く胸を打たれました。それは、純粋に優木せつ菜というスクールアイドルの輝きが真っ直ぐに自分の中に届いたというのは間違いなくあると思います。
ですが、こうして言葉にしていく中で、それだけじゃないよなと思う部分もあって。この物語の中で彼女が葛藤して、そして向き合い続けてきた「大好き」なものについて、どうしても自分の事のように思えてしまった所があるんですよね。それは自分の「好き」なものとの向き合い方と重ねたくなる部分が多いからです。
僕がラブライブと向き合ったり、こうして好きなものについて発信するようになってから、「好き」なものに対する向き合い方はこれまでとちょっと重みも、意味も変わったような気がしています。その根っこの部分にあるのが、僕の「好き」は自分にしか無いものだから大切にしたいし、誰かの「好き」も大切にしたいという感覚です。
その感覚を語るために、せっかくなのでこのブログをその導入部分にしたいと思います。気付けばこのブログは1年続きましたが、その中で、何かを語るために何かを下げるみたいな表現は絶対にしないという自分に課したルールがあります。なぜそれを自分のルールとしているかというと、「好き」を否定しかねない表現だからです。それは自分もですし、そのブログを読んだ誰かもです。
そして、これは自分の中で暗黙のルールにしておこうという思いもあって、あえてここまで書いても来なかったし、表立って言及することを避けてきました。でも、1年続けてきて、ようやくそれを言葉にして良いかなという想いと、せつ菜ちゃんに抱いた共感の解像度を高めたいからあえて言葉にしてみようという想いがあります。(どちらかと言うと、後者の気持ちが背中を押してくれた)
先ほど書いた何かを語るために何かを下げるみたいな表現ですが、例えるなら、自分はAというグループが好きでその話をしたいとします。その比較対象として、元々好きだったBの話を持ち出して、「昔はBだったけれど、やっぱりAが好きで!」みたいな文章を書いたとします。それを書いた当人としては、今はAが好きな気持ちが全面に出ていて、よりリアルタイムでそれを応援している熱量は出ると思いますし、同じようにAを追っている人が読んだとしても、応援している気持ちには変わりなく受け止められるだろうからポジティブに伝わるのかなとも思います。
でも、Bが好きな人がそれを受け取った時の心情って複雑だよねとも思うんです。
その人にとっては今Bが好きなのに、Aを語るためにBを担ぎ出されたような感覚というか、知らず知らずのうちに比べなくても良いAとBを比べられて、結果的にAの方が優れているみたいな見え方に捉えられてしまう。
これは被害妄想強めかもしれませんが、でも、それくらい人にとって「好き」なものって繊細で壊れやすいものでもあるんですよね。少なくとも、僕自身は自分を始めとしてそれぞれが持っている「好き」にはその人にしかない「好き」との出会いがあって、その気持ちを大切に育ててきた時間があってと何かある度に考えてしまいます。
そんな考えを持っているから、↑に書いたようなルールを特にこの1年は自分の中で縛りのように続けてきたつもりです。
そんな補足に補足を重ねる形にはなりますが、なぜここまで「好き」を発信することに気を遣うのかというと、かつて僕にも好きなのものを語りたいが故に間違えてしまった事があったからです。
これはオタクになる数年前の出来事で、自分の中で「語りたい!」という気持ちがそうさせたのか、もしくはそれを語っている自分に酔っていたのか、今から思えば最低最悪な結論を出してしまいました。それに至るプロセスも、その結論も詳しくは言及しませんが、実際にそれを人に読んでもらった時に「本当にそれが好きなの?そうなら、そんな文章も、結論も出さないはず。」という厳しい言葉を貰ったという事だけは書いておきます。
幸いにもこれに関しては、誰かの「好き」を否定することはありませんでした。ですが、「自分は本当にこれが好きなのか?」という一番疑いたくない自分の気持ちを疑う所までいって、悲しくはなりました。
結果的に、それでも自分はその好きなものに向き合いたいのだと言う気持ちが勝った事で、その文章も、そこに対する自分の考えも整理した事で何とか「好き」を形にすることができました。思えば、その時の経験が「好き」に対する意識をこんなにも敏感にさせているのだと思います。
自分の中にしまい込んでいた過去の過ちを思い返しながら書いてみましたが、久しぶりに振り返ってみると、僕が改めて『大好きを叫ぶ』の物語の中でせつ菜ちゃんに共感を抱いたのは、自分の中で同じように「好き」に対しての葛藤があったからなんだと思いました。
だから、彼女が自分の「大好き」が誰かの気持ちを否定していたのかもしれないと気付いたシーンを見ていると、ちょっぴり胸が痛む想いがするし、そんな彼女が自分の「大好き」と向き合って、それでも自分の「大好き」を貫くと決めたシーンを見た時に、この感覚は凄く分かると思えたんですよね。
実際、僕もあの失敗をきっかけに、自分の「好き」と向き合って、その先でラブライブシリーズと出会って、こうして「好き」を発信できることが楽しくて仕方ないです。もちろん、さっき書いたように今は誰かの「好き」も大切にしたいと思っているから、気を遣う事も忘れる訳にはいきません。それはちょっぴり大変な事もあるけれど、でも、あの時とは違って素直に自分の「好き」を描けているような確信はあって、ようやくあの時の自分から変われたのかなとも思っています。そして、そういう自分の想いを『大好きを叫ぶ』のせつ菜ちゃんの姿から感じ取っていたのだと思います。
ようやく、あのエピソードを受け取った時に思った以上に自分の気持ちが動いた感覚を言葉にできました。
それは、ここまで書き連ねてきたような「好き」に対する経験が無意識にせつ菜ちゃんと気持ちをシンクロした事がそうだと思います。そして、こうしてブログを書いた結果として、僕にとって優木せつ菜というスクールアイドルは新しい「憧れ」=「大好き」を追い求めて一歩先を走る「憧れ」だとも気が付けました。
これからも彼女のように「大好き」を貫きます!
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