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人間っていいなー吉村萬壱の小説世界ー

 吉村萬壱は日本を代表する小説家であるがそう思っている人はあまりいない。たぶん気持ち悪い小説ばかり書いているからだろう。この文章を書いている今は平日の午前9時で、涼しい風が外から入ってきて大変素晴らしい。しかし窓の外から「ぽっぽっぽっぽっぽっぽっぽぽぽぽぽぽ」という正体不明の機械鳥の声のような音がずっと鳴っている。急にこんなことを書かれると読んでくれているあなた(僕はまだ「読者」って偉そうな感じがして使えない)は、不快だろうか。こわいかな。そういう不愉快を積み重ねるのも吉村萬壱の小説の特徴かもしれない。
 吉村萬壱は2001年、「クチュクチュバーン」で第92回文學界新人賞を長嶋有と同時受賞しデビュー(ちなみに綿矢りさもこの年「インストール」で文藝賞を受賞しデビュー)する。そして、2003年「ハリガネムシ」でこの年の上半期の芥川賞を受賞(ちなみに綿矢りさはこの年の下半期に「蹴りたい背中」で金原ひとみと同時受賞)する。なぜか綿矢りさと縁があるが作風に全く共通点はない。初期はSF風の荒唐無稽な世界観が特徴だったが、次第にリアリズム小説へ移行。文章は簡潔で分かりやすく非常に読みやすい。変な人たちが変なことをしているのに文章が異常に分かりやすいため、いやでも脳に入ってくる。
 「破壊」、「暴力」、「人間の闇」といった言葉が、彼の小説の特徴を説明する時に用いられる常套句である。皆さんはこの言葉を見て、どう思うだろうか。ぜひ読みたいという人ももちろんいるだろうし、なんか嫌だな、苦手だな、と思う人もいるかもしれない。いろんな小説を読んできた人なら、「今さらなんか古くね?」と思うかもしれない。どれも正しい反応だと思う。しかし結局これらの言葉は彼の小説の本質を捉えていない。吉村萬壱の描く暴力や人間の闇(のようなもの)は、あくまで手段に過ぎない。そのへんを僕は語りたい。
 彼の小説世界について話をするのに絶対に欠かせないのが、デビュー作の「クチュクチュバーン」だ。ここから全てが始まり、おそらく全ての終わりも既に含まれている。タイトルから察することができると思うが、これはかなり変な小説である。あらすじを簡単に書く。物語の始まり、世界は何らかの理由で終わりかけている。核戦争などがあったらしいがどうやらそれは根本の原因ではなく、ある日突然、人類が「変異」し始めたらしい。手が20本くらい生えてきたり、机と合体したり、巨大化したり、ハムスターサイズになったり。脈絡もなく人類はぐちゃぐちゃに苦しみ始める。しばらくすると、かつて人間だった異形の者たちが、同じ方向に向かって走り始める。その先には巨大な集合体があってみんなそれに吸収されていく。やがて集合体は収縮を始め、クチュクチュクチュクチュ…と音がしたと思ったらバーンと爆発して、人類は小さい蜘蛛みたいな生き物になりましたとさ、という話である。100ページにも満たない短篇である。ここまでを読んで、あまり面白くなさそうと思われたとしたらそれは僕の要約能力の問題だ。なぜならこの小説は面白い。少なくとも異様な読み応えがある。
 僕はこの小説を何度も読み返しているが、初読時はもう二度と読みたくないと思った。その原因はおそらく作中の残酷描写ではない。本作には、血肉が飛び散ったり、虫けらのように人間が殺されたりといった描写が頻発する。しかし、それ自体があまりにグロテスクだったわけではないと思う。僕がやられた原因は絶望かもしれない。僕はこの小説が突きつける圧倒的な「無意味」に衝撃を受けた。この小説の中で何の必然性も脈絡もなく苦しんで変態して死んでいく人類の姿は、冗談でも比喩でもなくただの現実だと僕は感じた。人間はただの肉塊であり、特別な存在でも何でもない。絶滅は何の理由もなくあっという間に訪れるのだ。人間に意味はない。この生に意味はない。かけがえのない命、すばらしい人生なんていうのは人間が作り出した幻想である。人間は潰れたら汁が出る肉以上の存在ではない。そういうことだ。それに僕は絶望した。
 今にして思えばなんて無邪気な感想だろうか。その日を境に僕の人生観は一変した。僕が「クチュクチュバーン」から受け取った絶望は、それが完璧な絶望であるのと同じ理由で眩いばかりの希望になった。人生は全くの無意味である。つまり何をしたっていいのだ。かと言って反社会的な行動に走る訳ではない。「反社会」などというもの自体が無意味である。肉同士のぶつかり合いに「反」もクソもない。しかし僕の脳は存在していて快不快を訴えたりするので、そこは尊重しよう。他の人間は基本肉人形である。たまに、人間だと勘違いして接する程度でいい。それ以来、僕は事あるごとに「クチュクチュバーン」を読み返しケラケラ笑っている。
 一番思い入れが強い作品なので、少し長くなった。ともかく「クチュクチュバーン」という小説の雰囲気が伝わっただろうか。先ほども述べた通り、この小説には暴力描写が多い。文明を剥ぎ取られた終末世界の人間たちは、まるで動物のように己の欲望のままに行動する。そして作者は「それ」を描くことが目的ではないと思う。「それ」を描くことで、人間も動物や虫と変わらない美しい存在だということを証明するのだ。ほとんど全裸で互いを殺しあう人間の姿は、無心に交尾の相手を食い続けるカマキリのそれに似た美しさがある。その視点が圧倒的に新しい。「人間の本質」としての暴力性や性衝動などを露悪的に書いた伝統的な日本文学との違いはそこである。そもそもそれを「悪」だと捉えて葛藤することが子供じみている。虫に「悪」があると思うか?
 吉村萬壱はその後も(おそらく)精力的に小説を書き続けている。前述の芥川賞受賞作「ハリガネムシ」は、その苛烈な暴力描写が選考会に波紋を呼んだが、いざ本が発売されても大きな社会問題にはならなかった(たぶん)。理解のある読者が多かったという理由ではないことは確かだ。そして、「ハリガネムシ」の選評を見ると、ほとんど誰も彼の文学を理解していないことが分かる。本来なら当時の文藝春秋を当たるのが筋だが、今回は過去の芥川賞について詳細なデータをまとめているウェブサイト「芥川賞のすべて・のようなもの」(https://prizesworld.com/akutagawa/)から引用する。
 「ハリガネムシ」はほとんど全ての選者の同意を得て当選したようだ。唯一反対票を投じているのは宮本輝である。発言の一部を引用する。「また古臭いものをひきずり出してきたなという印象でしかなく、読んでいて汚ならしくて、不快感に包まれた。」、「「文学」のテーマとしての「暴力性」とかそれに付随するセックスや獣性などといったものに、私はもう飽き飽きとしている。」。これらの発言は、一般的な読者の感覚に近いと思う。しかし的外れだということは、ここまで読んできてくれたあなたなら、分かっていただけると思う。『「暴力性」とかそれに付随するセックスや獣性』は「テーマ」ではなくて単に手段である。テーマがあるとすれば「素敵な虫虫ライフ」くらいであろうか。しかし、「ハリガネムシ」だけ読んでそう思ってしまうのは無理もないとは思う。 そして、当選に同意した選者の選評も大差はない。結局宮本輝が当選に反対したのと同じ理由で、当選に賛成しているのである。つまり暴力や、性衝動を丁寧に描いた作品として評価している。
 以上のように、吉村萬壱の作品は評価されるにしても批判されるにしても根本的に誤解されていると僕は思う。『ハリガネムシ』文庫版解説の中原昌也は、分かっているような感じだったが、今読み返してみると何を言っているのかよく分からなかった。
 吉村萬壱は、全生物の頂点に立っていると誰もが信じて疑わない人間という存在を、極めてジェントルにそこから引きずり下ろし、土や泥に濡れて血まみれで転げ回る姿を穏やかな表情で眺め、小説にする。大長編『バースト・ゾーン—爆裂地区—』では、「クチュクチュバーン」のエッセンスを長大な戦争小説に仕上げた。島清恋愛文学賞を受賞した『臣女』では、不貞を働いた夫のせいで精神に異常をきたした妻が巨大化する(おそらく島尾敏雄の『死の棘』へのオマージュである)。異形の者と化した妻は、大量に食べ、排泄し、変態を続け、異様な存在感と醜美を超えた魅力を獲得する。傑作『出来事』では、社会や現実は人間の脳が作り出した幻想だと看破する。コロナ禍の近年では、同調圧力の暴力と集団幻想を描いた小説として『ボラード病』が話題になった。その小説世界は、初期から大きく広がっているが、根本にあるのは、「人間」を決して内側から書かないという視点である。常に距離を取り、昆虫観察をするように人間を見る。だから容赦なく書ける。悪趣味でグロテスクなことを書いているのではない。子どもがバッタの足を引きちぎったり、カブトムシに無理やり交尾させたりするのと変わらない。子どもは虫が憎いからそんなことをするのではない。むしろ好きだろう。そして愛情の故の暴力とかでもない。ただ単に面白いのだ。
 さて、最新作『死者にこそふさわしいその場所』も意欲作だった。ある町を舞台にした連作短編である。そこには人としてのネジがどこか外れた人々が暮らしている。いつものようにセックスや暴力も描かれているが、どこか全体的に生気を欠いているように思えた。今までのような虫虫した元気がない。なんだか仕方なくやっているようだ。そして、最も印象的かつ、この短編集を読み解く鍵になる短編は「堆肥男」だろう。アパートに一人の中年の男が引っ越してくる。彼はいつもドアを開けっ放しで、パンツ一丁でスマホをいじっている。真夏の夜も虫や動物が入ってくるのにもかまわずワイドオープンだ。野良犬に性器を舐めさせたりもしている。最初はその男にうんざりしていた隣人たちも、次第にその自由な姿が気になってくる、という話。この堆肥男は、非常に魅力的な登場人物であると同時に、これからの吉村萬壱の文学の鍵を握る最重要人物であると思う。ついに、人間が虫や動物と物理的に一体化し始めているではないか。もはや比喩ではない。ついにここまでやってきたのだ。そして、この短編集の最後を飾るのが、表題作「死者にこそふさわしいその場所」である。この話では、これまで本書の小説に登場してきた人々が、町にある植物園に吸い寄せられるように集まってくる。そこでしっちゃかめっちゃかの大騒ぎが繰り広げられる。そして、例の堆肥男の、文字通り堆肥になりかかった死体が発見される。僕はこの短編を読み始めた時、みんな植物園で堆肥になるというオチなのかなと思っていたが違った。大騒ぎした後みんな散り散りに逃げ帰ったのだ。なんじゃこりゃと思った。なんかまとまりのない終わりだと思ったが、しばらくしてはっとした。彼らは堆肥にならなかったのではなく、まだなれなかったのだ。なぜならまだ人間だから。まだ「ふさわしく」ない。そこは「死者にこそふさわしい」場所だったのだ。残念、またね、というわけだ。ここまで読んできてくれたあなたなら、「堆肥になれなくて、なんで残念?」とは思わないだろう。だって土や虫と一緒になれるのだ。なんて素晴らしいんだろう。
 そして僕はこの文章の最初の方で、「クチュクチュバーン」について、「ここから全てが始まり、おそらく全ての終わりも既に含まれている。」と書いた。もう気づいた方もいるだろう。「クチュクチュバーン」は全てを予見していた。「死者にこそふさわしいその場所」で、町の人々が植物園に吸い寄せられるシーンは、そのまま「クチュクチュバーン」で、異形の者たちが集合体に吸い寄せられるシーンに重なる。吉村萬壱の小説世界自体が、今、「クチュクチュ」している段階なのだ。しかし今回はまだ「バーン」には至っていない。その前にみんな植物園から逃げ出してしまった。まだ人間なのだ。まだ早い。まだ「ふさわしく」ない。
 おそらく遠からず、その「バーン」にあたるとんでもない作品が、彼の手で生み出されるだろう。『死者にこそふさわしいその場所』はその予告だ。僕はそれがとても楽しみであると同時に恐ろしい。そこまで行った先に、まだやることは残っているのだろうか。まさかの絶筆宣言?いや多分大丈夫だろう。「クチュクチュバーン」も「バーン」してからも終わらなかった。むしろ終われないのだ。終われたら楽だが終われない。「意味あんのかよ!」と叫びながらまたやるしかない。それはみんな同じだ。意味はない。ない「けど」生きる、でも、ない「から」生きる、のでもなく単純に生きる美しさをみんなで手に入れようよ。その先には素晴らしい世界が絶対に待っているわけないというのはここまで読んできてくれたあなたなら分かってくれるだろう。

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