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障害を持った子供はそれを当たり前と思う

小さいころに、手足が不自由になったとします。
例えば、手が動かないのが当然。
学校に行くと周りの子は手が動くのですが、自分は動かない。
でもそれは当たり前。自分は片手で何でもできるから不便はない。

それで、家族や主治医も当事者である子供は特に不便は感じていないと思っている。
子供も何も言わない。

その時、治療や訓練は必要ないのかというと、そうとは限らないという経験をしました。

私は元来、子供は医療よりも学業や友達を一緒にいることを優先したいと思っています。学
校を休んで病院にリハビリテーションに来るよりも、学校の授業や部活に加わってほしい。
そこでの経験は子供の時にしかできないからです。

Aちゃんは一つの手が動かしにくい。もう片方で何でもできて、学校生活を満喫している。これでいいんだと思っていました。でも、マヒは少しずつ悪くなることがあります。
動かしにくいほうの手が少し動かせるようになると、両手での作業ができるようになります。数年前から手の訓練、治療をするようになると、両手を使うことを覚えられたのです。

「使えなくても不便はない」は両手を使うことを知らないのでそう認識しているのかもしれません。もし、使えるようになるのであれば、両手を使う訓練、治療をした方がいいし、Aちゃんも両手を使うということがわかってくる。

障害を持った子供にとって、当たり前とは何か?不便はないですという言葉の曖昧さを感じました。

不自由な社会に生きていてそれを当たり前と思うのは、私たちも同じ。
例えば、江戸時代の士農工商の身分で縛られていたら、それで当たり前。
少し前の男女差はある社会だったら、男女待遇に差があるのが当たり前。
不自由さを感じるには自由を知る必要があります。

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