たとえ、水と霊によって新しくされても、実を生み出していない枝は切り落される
キリスト・イエスを信じる信仰によって、神から御霊を受けても、ちょうどイエスさまが、父なる神の喜ばれることをいつも行っていたように、神のみこころを行う必要があります。もし、クリスチャンであっても実を生み出していない枝は神によって切り落されます。パウロが聖書の中で、「もし宣教しなければ、わたしにとってそれは災いになる。」と言った意味がこれです。一度信じたら、その救いは永久に失われないという教理は誤りです。神が聖徒たちになぜ、しつこいくらい教えなければならなかったのか?それは、聖徒でも最初に持っていた神への愛から離れることがあるからです。ついでに言えば、イエスさまと一緒に十字架につけられた犯罪人ですが、一人はイエスさまに救いのみ言葉をいただきました。彼の場合はこれから死んでいく人です。だから例外です。彼を例にとって何もしなくてもいいと間違って解釈しないようにしてください。もうひとつ、イエスさまが「私と共にパラダイスにいる。」と犯罪人に語った個所については、ギリシャ語の翻訳ミスがあります。「今日」の位置です。イエスさまは、黄泉下りはしません。死者は神が起こされるまで、ハデスで眠っているのです。それではノアの時代の霊たちに、いつイエスさまが語ったのか?それは、イエスさまが亡くなってからではなく、イエスさまは、当時、神が辛抱強く待っている間、生きていた人々にノアと一緒に霊として宣教活動を行われたのです。何百年も誤った解釈がされてきました。ほとんどの牧師たちや聖書解釈者たちは、黄泉下りをしたと信じています。こうして真理は曲解されてきました。アーメン。