神が遠くにおられると感じるとき

こういう時はたとえ自分一人であっても、神の掟を守ろうと考えます。つまり自分の力でです。たとえ神の力が無くてもです。そう、考えますが、それでいいのだろうかとも考えます。いや、やはり自分には、すでに神の力は与えられているのだということを思い出して、それを信じる時、神の御霊の力が働きます。これが神を信じるということだなと改めて思うのです。ネットで自分と同じ趣旨の救いの在り方について述べている記事をいくつか見つけました。多くのクリスチャンがこのあり方で生きていないという趣旨も同じです。キリスト・イエスの持つ父なる神への真実の愛(十字架)と私たちに対する真実の愛(十字架)この愛以外に罪に勝てる力はありません。信仰による勝利とも言われています。しかし、愛のない信仰は無意味です。「イエスに対する信仰」という当たり前に使っている聖書の翻訳がどうやら間違っているようなのです。日本語のギリシャ語翻訳が間違っている。「アブラハムに対する信仰」と私たちは言いません。これと同じようにギリシャ語の文法で見る限り、聖書の翻訳が間違っている。「イエスに対する信仰」というより、「イエスの信実」と訳した方が原文に近いということです。「信実」という日本語があまりなじみがないため「真実」と訳している場合もあるようです。父なる神の約束に対する私たちの真実の信仰。イエスさまが父なる神を証し、父なる神がイエスさまを証しした。疑問が生じるのは、真のクリスチャンの証しである「御霊」は、どうなっているのかという疑問です。大抵の信者は、自分を十字架には付けていないでしょう。これをやるのは、誰か?聖書に書いてある通り、人間の覚悟です。キリストが苦しまれたのだから、私たちも武装する。ペテロのこの言葉ですが、よく覚えておきましょう。たとえ一人であっても、自分の力でこれをやらなければなりません。これが神への愛です。神のみこころを自分一人で行う。たとえ、神さまがいなくてもです。そういう気持ちを実行すれば、御霊が来る。こういう原理です。罪の奴隷の子はいつまでも一緒にいることは出ません。神の子供になるのは、神の選びと人間の覚悟です。キリスト教世界では、この点に関し神さま任せにする教えが100%です。これが間違いなのです。自分に出来ない理由を神さまのせいにできるからです。あなたもそうでしょう。もうこれからは、真理を聞いた以上、自分の力で罪に勝利してください。出来ないのは自分のせいです。決して神のせいではありません。悪魔の惑わしから、目を覚まし、真のクリスチャンになりましょう。この教えに反する教えをする牧師はだれであっても重い罰を受ける。偽教師だからです。命をかけた信仰のみがあなたを救うことが出来る。終わりまで忠実であることを示せです。これを神への真実の愛と真実の信仰といいます。聖書通りの証しです。アーメン。

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