命の書に名が記されているなら

パリサイ派の人たちは、ゲヘナに行くようなので、何をやっても駄目であったと思われる。神の義に服さなかったからだと聖書で説明されています。ある人たちはクリスチャン会衆に入っても、後に割礼を強いた人となって犬と呼ばれる偽教師となっている。パウロが抵抗した偽教師たちは律法に従わせようとしたユダヤ人たちだ。彼らはきっと御霊を持たない人たちだったと思われる。パウロは命の書に名が記されていた。救いは神にかかっているとはその通りである。パウロの信仰はサウロ時代、クリスチャンを迫害することだったからだ。神に選ばれたからイエスに対する信仰が持てた。12使徒たちもイエスさまが選んだ。彼らはこの世界が出来る前から選ばれていたと御霊によって告白している。聖書を熱心に学んでいる人たちであっても、真理に至らない人たちが当時いた。パウロがそう語っている。命の書に名が記されていなかったからだろうか?それは神のみぞ知ることだ。人間は考えなくていいことだと思う。666の刻印は命の書に名が記されていない者が受けると書かれている。では、命の書に名が記されている者は刻印を受けようとしても受けることは出来ないはずだ。しかし、彼らは信仰によって受けないのだ。命の書と信仰とは関係がある。人間は信仰があれば、救われ、信仰を捨てれば、滅びる。人間の信仰と神の恵みが重要。はじめは神の民でなくても、後に信仰によって神の民になれる筈である。神のみこころであればという条件付きで。救うことは神のみこころである。イエスさまの十字架の購いが全世界のためでもあると聖書に書かれているからである。父なる神とイエス・キリストを知ることが、永遠の命だと聖書に書いてある。では、知る方法とは?みことばが信者のこころにあり、イエスさまがその人と結びついてくださればである。アーメン。

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