あなたは聖書も神の力も知らない

もし、真理の御霊を持っていれば誰からも「神のことば」について教わる必要はありません。「イエスを信じる者は正しい(義人)と認められる」と聖書に書いてあるから、私の言っていることは異端だと思っている人はいますか?なぜなら、行いが大切だと言っているからです。それとも、言っていることは分かる。分かるけれど出来ないんだ。こちらの方ですか?信じているのだから、救われていると信じている人よ。あなたは、神が命じている隣人愛を怠っている。業が伴わない信仰は死んでいるとヤコブははっきり証しています。業とは行いです。これで、あなたの信仰は死んでいることが分かりました。その間違った考えを捨て、神のもとへ行き、悔い改めてください。分かっているけれど、罪がどうしてもやめられないんだという人よ。性的な罪の止め方は、その邪悪なイメージから来る妄想を打ち壊せばいいのです。たとえば「女を見続けて情欲を抱く」のなら、勝手な間違った思い込みを打ち壊せばいいのです。いいですか、情欲を抱かないためには見ないようにすればいい。ということではありません。これは、罪と戦っている人です。そうではなく、たとえば、見続けても情欲を決して抱かなくなるということです。詳しく説明すると神の愛(霊)がこころに内在しているため、情欲を抱くことが不可能になります。この状態が、「罪と死との法則」から解放された状態です。こころが「命をもたらす霊の法則」によって清められた状態です。あなたは、聖書で「思いを作り直して神に変えていただく」と書いてあることを実行していないのです。だから勝利出来ないのです。両方とも人間が実行するのです。罪を止めることは、人間が行うことです。ここでも行いが出てきました。神が聖化で行うのではありません。そう教える人は偽り者です。そういう人は、死ぬまで罪を犯し続けます。聖書に書いてあります。「あなたの信仰が世に打ち勝った」と。この信仰とは何ですか?打ち勝てない人は神に止めさせてもらおうと考えますが、打ち勝った人は自分で打ち勝ちます。これが間違っている。おかしい?違います。ペテロが舟から降りてイエスのところへ向かって水の上を歩きました。歩いたのは誰ですか?ペテロが自分の足で歩いたのです。その時、神の力は働いていましたが、ペテロは疑いによって途中で沈みました。さて、結論です。罪に関しては「本人が罪を止めたいと思わない。止める気がない。」これが原因です。聖化の教理は人を欺くものです。人間が都合よく考え出したもの。この教理は人の罪を野放しにし、罪を神のせいにする、最悪の教理です。「内なる人を神が日々新しく成長させてくださる」という、パウロのことばの曲解です。アーメン。

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