神のみこころが人間の願い(祈り)より優先される
以下は、一つ前のブログに書いたことの聖書的根拠です。
イエスの願い
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
(ルカ23:33~34)
イエスのことばを聞いて一人の犯罪人は改心して救われた。しかし、イエスはローマ兵だけでなく、おそらく、イエスが救世主だと分からない、ユダヤ人たちのためにも神に赦しを願われたが、西暦70年に110万人のユダヤ人たちはローマ軍によって滅ぼされた。
パウロの預言ではなく信仰(願い)
15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
パウロが生きている時には再臨は来ませんでした。謎です。主は1世紀当時に本来なら再臨される可能性が高かったかも知れません。なぜなら、パウロは、「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが」と前置きしているからです。
(テサロニケ第一4:15)
ペテロの再臨の願い
12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
(ペテロ第二3:12)
1世紀当時に、神の民がキリストの高さまで達していれば、再臨された可能性があります。結局、神は、一人も滅ぼされることを望まないため、再臨が遅れているのです。再臨の一番良い時は、父なる神が御存知です。アーメン。