終末と新天新地ついての信仰による推察

聖書預言について、聖書から理解したことを書かせていただきます。聖書の他の個所で神の教えを、額に書き、手に記すという表現があります。獣である666が右手か額に刻印を受けさせるとは、人間の右手や額にマイクロチィップや他の何かをを埋め込むようなものではありません。獣の所有を意味するもので額は考え方、右手は行動を意味すると思われます。なぜなら、聖書の表現方法だからです。つまり悪魔の教えに従うということです。従わないと売ることも買うこともできなくなる。また、獣の像が話すとはホログラムではなく、つまり人間の技術ではなく悪魔のサイキックによるもの。悪魔がそのような奇跡を行なうため像が実際に話すと考えられます。信じられないかもしれませんが、その理由は、出エジプト記に書かれている、モーセの杖が神の力によって蛇に変えられた時、エジプトの魔術師も悪魔の力により同じことが出来たため。悪魔も奇跡を起こせるのです。このため命の書に名が記されていない者は皆、666を救世主として崇拝し刻印を受けると黙示録に書かれている。選ばれた者たちでさえ惑わされるかもしれないとイエスが警告している。この時点では聖徒はまだ地上にいる。携挙は艱難前はなく艱難末期に起こる。666が現われているということは、この時期は救われる者たちの額に印をつけることが終了しており、御使いたちが抑えていた四隅の風が解き放たれている状態です。666がバビロンを滅ぼす前に神の民はそこから出るように命令されており、そこから出てくるでしょう。この時期にはすでに、救われる者たちと滅びる者たちが二分されている。バビロンが滅ぼされてから天変地異が起こる。この時期にちょうど盗人のように予期せぬ突然の滅びが彼らに臨む。その前に聖徒の携挙が人の住む全地で御使いたちにより行なわれる。天に引き上げられる人たちは、キリストに似た体を着る。その後、天で婚宴がおこなわれ、それからキリストが巨万の軍(聖徒たち)を引き連れて地上に再臨される。地上に残った者たちは滅ぼされる。死体のあるところに天の鳥たちが集まる。一部生き残る者たちがおり、千年統治が始まる。千年統治はイザヤ書に書かれている預言で、アダムが住んでいた楽園のようになると思われます。千年が終わり、最後の審判を経て、救いを得る人たちは新天新地に入る。もはや何の呪いもなく、すべての涙をぬぐい去ってくださり、以前のことを思い出すこともないとは、信者も現実世界も全く新しく造り変えられており、素晴らしいものになっているので、過去が良かったなどとは思わないことと、恐らく神が人間の痛みの経験の記憶を消し去ってくださるためではないかと思われます。人類が未体験の至福の世界と永遠の命の祝福を信仰によって期待して受け取ってください。黙示録は預言の書で、人間の勝手な解釈は否ですが、本来なら誰もが読んで理解出来るはずです。でなければ書かれている理由が分かりません。しかし、以上はあくまで私の聖書理解のため、他の人の理解とは異なると思います。参考程度に考えていただけたらと思います。

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