灰原哀について 『劇場版名探偵コナン 黒鉄の魚影(サブマリン)』を観て
コナン検定1級を持っているくらいのコナンファンなので、今年2023年の『劇場版名探偵コナン 黒鉄の魚影(サブマリン)』を見て爆発したオタク感情を整理するためのメモを書いておく。
劇場版コナンとサブ主役、『ゼロの執行人』後について
今作のサブ主役は灰原哀である。コナン映画では2018年『ゼロの執行人』以降、主人公江戸川コナンの他にサブ主役を映画に置いている。歴代のサブ主役は以下のとおりである。
便宜上サブ主役と言っているが、このサブ主役の威力がバカにならない。「ゼロシコ」こと『ゼロの執行人』の安室透は、「いっそ劇場版名探偵コナンをやめて、劇場版公安警察降谷(または安室)にしたほうが良いのでは??」と思うほど、コナン君が安室さんに主役を食われていた。
ちなみに、コナンファンの「誰々(映画のサブ主役)を100億の男/女に!」という劇場版名探偵コナンの興行収入を100億にのせたろうやないかというムーブは、『ゼロの執行人』から始まったものである。私は『迷宮の十字路(クロスロード)』(2003)から毎年欠かさず劇場版コナンを映画館で観ているが、20年の歴史の中で『ゼロの執行人』はアウトスタンディングな存在である。それ以前は、主人公はあくまで江戸川コナンだけであった。ゼロシコ以来劇場版名探偵コナンのあり方が変わった。
灰原哀とアイリーン・アドラー キザな探偵を出し抜く頭のキレる女性
そして劇場版コナン史上初めて100億のサブ主役となったのが灰原哀である。
灰原哀は、昔から非常に人気のあるキャラである。公式から非公式まで、色んなところで色んな人が行うコナン人気キャラ投票において、ヒロインの毛利蘭どころか主人公の江戸川コナンすらも差し置いてが灰原哀が1位となることはとてもよくある。
ちなみに女性キャラに限った場合、2位は毛利蘭、3位は遠山和葉か鈴木園子あたりかと思いきや、実はその年の劇場版のサブ主役が誰であるかに大きく影響を受ける。例えば『緋色の弾丸』が公開された年では世良真純が2位に、『ハロウィンの花嫁』が公開された年にはやはり映画でフィーチャーされた佐藤美和子刑事が3位となった。
人気キャラが劇場版のサブ主役に登用されるのではなく、劇場版に登用されたサブ主役が(その年限定ではあっても)人気キャラとなるのである。
しかし灰原哀は不動であった。劇場版で他の誰がフィーチャーされようと、たとえ本作の中では毛利蘭に次ぐ2番手ヒロインポジションとして描かれていようと、女性キャラとしての人気は不動の1位であった。
灰原哀が人気である理由は色々とある。まず灰原哀といい綾波レイといい「林原めぐみさんが演じる影のある美少女」はだいたい爆発的な人気を博す。
さらに、コナンに登場する他の女性キャラにはない頭のキレがある。これが私が思うに灰原哀しか持ち得ない特性である。
毛利蘭、遠山和葉、鈴木園子といったレギュラー級の女子キャラは、素直で明るくて可愛くはあるものの、頭のキレる描き方はされていない。2011年発行の単行本で初登場となった女子高校生探偵世良真純も、コナンに比べるとやや推理力が劣るような描き方がされている。
そんな中で、灰原哀は唯一コナンを頭脳で出し抜ける可能性を持つ女性キャラである。灰原哀は探偵ではなく、自我としては科学者であるので、コナンのように様々な事件に首を突っ込んでは推理するようなことはしない。ただし、彼女の化学に関する知識はコナンのそれを上回っており、コナンが知らない化学現象をコナンに教え、それが事件解決のキーとなることはあった。『緋色の弾丸』でもいち早く謎の爆発現象の正体がクエンチであることに気づき、コナンに伝えた。
アイリーン・アドラーはシャーロック・ホームズシリーズに登場するオペラ歌手で、唯一ホームズを出し抜いた女性とも言われる。もともとホームズは女性差別的であり、女性の知性をあまり信じていなかったのだが、アイリーンに出し抜かれたことによって彼の態度も多少変わった。
ホームズを出し抜いた女性アイリーンのように、コナン世界の中でコナンを出し抜く可能性のある知性を持った女性として描かれているのは、おそらく偶然ではないと思う。
「愛」ではなく「哀」 宮野志保の半生
阿笠博士からの「灰原愛」の提案を蹴り、「灰原哀」を選んだ灰原の考えについて思いを巡らせたい。ちなみにここまでは適宜エヴィデンスなどを張り付けつつ書いてきたが、ここから先は完全に私の想像である。
灰原哀となる前、すなわち体が幼児化する前の宮野志保としての彼女の人生を振り返る。彼女の人生は過酷なものである。
宮野志保は、製薬会社勤務の科学者である宮野厚司と、医者である宮野エレーナの間に生まれた。姉には宮野志保がいる。
宮野志保の両親は、彼女が生まれることをきかっけとして黒の組織にかかわりを持ち始めた。もちろん、黒の組織が恐ろしい犯罪組織であるなんてことは露ほども思っていなかっただろう。第二子である志保を妊娠し、これからはますます頑張ってお金を稼がねば、と思っているときにタイミングよく組織から多額のオファーが来たのである。
しかしその両親も早々に事故で亡くなった。宮野志保は幼少期からアメリカにわたり、長いアメリカ生活を送った。その際に知り合ったのが映画にも登場する直美・アルジェントである。
宮野志保はその優秀な頭脳を組織から高く買われていた。彼女は黒の組織に嫌気がさしていたが、黒の組織から生きたまま逃れることはできない。見かねた心優しい姉明美が10億円と引き換えに妹の志保を解放することを組織と取引した。彼女は10億円強盗に成功し、志保の解放を要求するが、明美との取引に応じる気など初めからなかった黒の組織は明美を射殺する。
唯一の肉親である明美を殺害されたことで組織に反抗するも監禁された宮野志保は、自殺するつもりでかの有名な毒薬アポトキシン4869を飲む。幼児化した体でダストシュートから脱出し、自身と同じく幼児化した可能性のある工藤新一の家の前で力尽きて倒れているところを阿笠博士に発見され、今に至る。
宮野志保の人生を振り返ると、彼女は両親にも姉にも愛されてきたことがわかる。しかし、その愛ゆえに両親は黒の組織と取引をはじめ、姉の明美も殺害されてしまったということもわかる。
彼女が「愛」を拒み「哀」を名前に選んだ理由は、彼女の暗い半生にあるかもしれない。自分を愛したものは皆死んでいった。それが彼女の半生であったと考えれば、「愛」という名前を拒んだ理由も想像できそうである。
死にたがりの灰原哀
灰原哀は長らく死にたがりであった。というよりも、自分は本来組織に殺されるか、もしくはあの毒薬を飲んだ時点で死んでいるはずだったため、今の人生はおまけのようなもので、あってもなくても同じだと考えているような節があった。
有名なエピソードは「謎めいた乗客」である。灰原哀含む少年探偵団はバスジャック事件に巻き込まれるが、灰原哀は乗客の中に黒の組織のメンバーがいることに勘付く。バスにはバスジャック班による爆弾が仕掛けられた。
犯人たちはコナン、少年探偵団、同乗していたFBIのジョディ・スターリングらによって制圧されるが、犯人を制圧するために運転手が踏んだ急ブレーキの衝撃で爆弾のタイマーが入ってしまう。
急いで乗客たちがバスから逃れる中、灰原哀は車内にひとり残っていた。今爆破から逃れたところで、外に逃れた乗客の中には黒の組織のメンバーがいる。灰原哀もとい裏切り者のシェリーがいるとわかれば、黒の組織は彼女は当然のこと、彼女と一緒にいた阿笠博士や少年探偵団のことも消すだろう。爆死して身元不明の遺体として発見されることが、彼女にとって最善の策だったのである。
灰原の思惑に気づいたコナンがバスに乗り込み、爆発と同時に彼女をバスから救出する。そのときにコナンが言ったセリフは、ファンの間では非常に有名である。
次に、『劇場版名探偵コナン 天国へのカウントダウン』(2002)でも、自分が犠牲になって少年探偵団を守ろうとするシーンがある。
爆弾によって超高層ビルの高層階に閉じ込められた少年探偵団は、会場に展示されていたマスタングに乗り、会場に仕掛けられた爆弾の爆風を利用して隣のビルへ飛び移る脱出劇を思案する。
しかし爆弾のタイマーは車からは見えない位置にあり、爆破と同時にビルから飛び出すことが難しい。少年探偵団は、以前「30秒当てゲーム」で30秒ジャストを当てた歩美が30秒からはカウントし、それまでは灰原がタイマーの前でカウントするという作戦を立てる。
しかし、30秒を切っても灰原哀はカウントを続けた。いち早く灰原がカウントをやめないことに光彦が気づき、元太が「灰原!何やってんだ!早く来い!」と叫ぶも、灰原は「バカね、このほうが正確でしょ」と涼しく言い返す。
少年探偵団の中で圧倒的パワー(体重)を持つ元太が、カウントを続ける灰原を無理やり抱えて車に投げ込むとほぼ同時にコナンが車を発進させ、少年探偵団は脱出に成功する。
上記のエピソードからわかるように、彼女は自殺願望があるわけではないものの、自分が犠牲になることで誰かの命が助かるのなら自分の命を投げ出すことに躊躇がなかった。
人のために自分の命を犠牲にすること、それは志保を救うために組織に危険な取引を持ち掛け射殺された宮野明美の行動を思い出させる。灰原が姉の行動を意識して自己犠牲的行動を取ったのか、または宮野姉妹が生来そのような性格なのかはわからない。どちらにせよ、死にたがりの灰原哀が、自分の命を他の人々の命より低く見積もっているのは確かである。
「あなたには生きる義務がある(そして私にも)」 灰原哀の脱出劇
さて、ようやく『黒鉄の魚影』の話をする。
父親を見せしめに狙撃され絶望する直美・アルジェントに、灰原哀はこのように声をかける。
直美は灰原の過去を知らない。「子どものあなたに何がわかるのよ!」と感情的に噛みつく直美に、灰原は「子どもの言葉で人生が変わることもある」と返し、直美を連れて、黒の組織に潜入するCIA諜報員キールこと水無怜奈のサポートもあり、間一髪の脱出劇に成功する。
灰原の言った「生きる義務」とは何なのだろう、と映画を観た後しばらく考えていた。
直美の生きる義務とは、彼女の開発した老若認証システムをもって世界の人種差別や世代間差別をなくすこと、直美の夢である「差別のない世界」の実現であろうか。
とはいえ、父親が自分のせいで狙撃された直美に、今更彼女の夢の実現を灰原哀が説くだろうかという気もする。
あそこで言った「生きる義務」とは、バスジャック事件の際にコナンが言った「運命から逃げるな」の灰原哀解釈バージョンなのではないかと個人的に思っている。
つまり、「差別のない世界」の実現の話をしているのではなく、父親が自分のせいで狙撃されたからといってあなたまで死んではいけない、苦しくてもその運命から死によって逃れようとしてはならないと言っていたのではないだろうかと思う。
そしてその言葉は灰原哀自身にも向けられている。自分のせいで姉は死んだ。その事実は変えられず、その運命から逃れることはできない。「あなたには生きる義務がある」は、直美に向けられた言葉であると同時に、灰原が死にたがりであった自らを叱咤し、鼓舞する言葉でもあった。
「子どもの言葉や行動で、人生が変わることもある」 子どもとは誰のことか
「子どものあなたに何がわかる」と叫ぶ直美に向けた灰原哀のセリフである。
ここで灰原の人生を変えた「子ども」とは言うまでもなく少年探偵団のことであり、とりわけ吉田歩美のことであろうと思う。
吉田歩美は、灰原哀が帝丹小学校に転入してきたその日から、ひとりでいたがる態度を見せる灰原のことを気にかけていた。
灰原哀を少年探偵団に誘い、灰原哀に「コナン君のこと好きなの?」「だったどうする?」「困るよ……」と恋敵としての彼女の魅力を認め、「灰原さん」呼びをやめて「哀ちゃん」と呼びたいと葛藤する。
ひとりよがりになりがちだった灰原哀に、クラスメイトの仲の良い女の子として向き合い、理解しようとしてきたのが歩美ちゃんである。
歩美ちゃんがいる灰原の小学校生活は、いじめによって孤立しその孤立を受け入れた宮野志保の幼少期とは真逆のものである。
コナンはことあるごとに小学生としての生活にうんざりしているが、灰原は案外小学校生活が気に入っているとほのめかしている。それは歩美ちゃんとはじめとする少年探偵団が、灰原を仲間として迎え入れてくれる、彼女の言葉で言うなら「居場所がある」「席がある」小学生生活だからである。両親に愛され、友達も多かったであろう工藤新一の小学生生活を味わったコナンにとっては、何の変哲もない退屈な小学生生活であっても、幼少期からずっと孤立していた宮野志保にとっては賑やかな日本の小学生生活は全くの新しい体験であり、居心地のよいものなのであろう。
孤立した幼少期を過ごし、黒の組織の一員となり、組織の裏切り者として追われる身である宮野志保はその人生を半ばあきらめていた。しかしそんな宮野志保が、まだ生きていたい、今の生活を守りたいと思うに至った理由は明らかに歩美ちゃんや少年探偵団の歓迎にあるだろう。
強がるポーズはそういつまでも続かない わかっているけれど
『黒鉄の魚影(サブマリン)』の主題歌の一説である。
小学生としての灰原哀の生活にはいつも影が付きまとう。
灰原が灰原哀として気丈に生きていくことを誓ったところで、彼女が黒の組織にとっての裏切り者であることは変わりなく、「灰原哀」という架空の身分で生きていることも変わりない。いつ壊れてもおかしくない日常である。
そのことを、本映画の誘拐事件を通して灰原哀は誰よりも痛感しただろう。自分の正体が宮野志保、ひいてはシェリーであると黒の組織に勘付かれたときが最後、「灰原哀」は消滅せざるを得ない。
もし今後、また黒の組織が灰原哀の真の正体に迫ることがあれば、彼女はまた毒薬の解毒剤を飲み、宮野志保となって彼らに人知れず殺されることを選ぶだろう。阿笠博士や少年探偵団、毛利探偵事務所などの灰原哀にかかわった人々に危害を加えないためだ。
そう、本映画の脱出劇はその場しのぎに過ぎない。灰原哀の生活が守られるのは、彼女を脅かす黒の組織が消滅したそのときだけなのである。『美しい鰭』のこのフレーズは、とはいえ今後も危機に晒され続ける可能性があることを理解した灰原の思いなのであろうと思う。
救い、救われ、また救う
黒の組織のメンバーの一人として暗躍し、一転組織から追われ命を狙われる立場となった灰原は、明るく優しくみんなに好かれる毛利蘭をイルカに、自らのことを「意地の悪いサメ」に喩える。
黒の組織の一員として数々の人間を殺した毒薬を開発し、唯一の肉親であった姉は自分のために組織に殺害され、組織を抜け出した裏切り者として命を狙われる立場になった灰原は、自分は意地が悪く、他者を傷つける、災厄を引き起こす存在であると思っている。
だが、それは宮野志保の本質ではない。
『黒鉄の魚影』では、宮野志保の幼少期が、彼女以外の視点から初めて語られる。語るのは直美・アルジェントである。
イタリア人の父と日本人の母の間に生まれ、ボストンで幼少期を過ごした直美は、東洋人であることでいじめを受けていた。その直美をいじめから庇ったのが同じく東洋人の宮野志保であり、いじめのターゲットは直美から志保に移る。再びいじめられることを恐れた直美は、志保を救うことができなかった。直美はこのことを大人になっても後悔しており、志保に会って謝りたいとの一心で映画のキーとなる老若認証システムを開発するに至る。
黒の組織によって潜水艦へ誘拐された直美・アルジェントは、同じく誘拐された灰原哀にこのエピソードを語る。灰原は、老若認証システムを開発したエンジニアの直美・アルジェントをニュースで見かけたとき、「どこかであった気がする」とは感じたものの、かつて自分がいじめから救った少女だとは思い当たらなかった。灰原は、直美から「志保が私を救ってくれた」と聞いて初めて直美と自分の関係を思い出す。
宮野志保にとって、「いじめられていた少女を、自分が身代わりになって救った」ということはさして印象的なエピソードではなかった。少女の代わりに自分がいじめの標的になったことについて、灰原は何とも思っていない。「あのとき助けなければ自分はいじめられなかったのに」とも思わないし、恩に着せることもない。ただ当たり前にいじめられていた少女を助け、当たり前にそれを忘れていったのだ。宮野志保の本質は、優しさと勇敢さである。目の前にいじめられて泣きそうになっている女の子がいたら助ける、自分が身代わりにいじめられることになったとしても、その結果を後悔したりはしない。
その後、組織のメンバーとなり、さらに組織の裏切り者として命を狙われる立場になった灰原は、本来の優しさと勇敢さを失う。誰に対しても心を開くことができず、日陰にずっと身を隠している。
そんな彼女に本来の優しさと勇敢さを呼び戻したのが、江戸川コナンや吉田歩美である。「自分の運命から逃げるな」とコナンに諭され、犯人の顔を目撃してしまったために犯人に狙われる恐れがあるが、果敢にも犯人探しに協力する吉田歩美の言葉で逃げ続ける自分の人生を否定する。
このとき、灰原哀はFBIから証人保護プログラムのオファーを受けていた。証人保護プログラムを受けることは、組織の追跡から逃れるために、名前を変え、別人として生きていくことをさす。証人保護プログラムを受けることは、灰原哀にとっては合理的な選択肢ではあったが、危険から逃げずに正しくあろうとする、正しいことをしようとする吉田歩美の言葉を受けて、証人保護プログラムを拒否し、灰原哀として生きることを決めた。
江戸川コナンと吉田歩美によって本来持っていた優しさや勇敢さを取り戻した灰原は、10年ほどの月日を経て、また直美・アルジェントを救う。組織によって父が狙撃され、「自分のせいで父は死んだ、もう生きていても意味がない」と潜水艦からの脱出を拒む直美に、「あなたには生きる義務がある。私を信じて」と手を差し伸べ、潜水艦からの脱出を無事成し遂げる。
灰原哀は、灰原哀として生きることを決めたあの瞬間から、本来の優しさと勇敢さを取り戻しつつある。長らく暗い影の中にいた彼女がゆっくりと陽の下に出ようとしている。今後も彼女は江戸川コナンや吉田歩美のように誰かを救い続けるだろう。