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毒 #シロクマ文芸部

 月の色は何色だと思う?と聞いたら、誰とも違う答えをしたい、それが鯛子たいこだ。何事にもこだわって滔々とうとうと話し続ける彼女に相槌を打ちながら唐突にそんなことを思う。落ち着いたネイルの施された手荒れ一つない潤った指が目の端に入り、そしてふとその手に胸の奥を撫でられた、そんな気がした。

 歳月は二人をずいぶんと離れ離れにした。短く切り揃えられた自分の爪にふと触れながら思わずにはいられない。彼女は長年キャリアを積んで潤沢な年収を持つ。同じように職場でのやるせなさも積んできたようだ。数年後に定年を迎えるけれど、老後が不安だから働いていたいという。なんなら、キャリアアップすら考えているような口ぶりだ。十分に資産がありそうなのにと口にしかけたけれど、彼女がほしいものが私とは全然異なるのだとすぐに気づいた。身につけているもの全てが洗練されて選ばれたものでなければならない。それはきっともう彼女にとっては当たり前のことだから。

 違う。ただそう思う。この人と私は幸せの位置が違う。だからといってうらやましいという気持ちは湧いてこない。リラックスしたままグラスを傾ける。かぼちゃのスープの上に浮かんだコンソメのゼリイがのどをなめらかに滑り落ちていく。この小さなビストロの二人がけのテーブルが保っている距離のようにほんの少し遠くから眺めているような錯覚に陥る。

 話を聞いているのは全然苦じゃないのに、思い出したように彼女はこう質問した。「最近どんな本を読んでいるの?」
「ええと、何かな」
 咄嗟に返答ができなかった。しどろもどろに最近読んだ本の中から最も彼女のお眼鏡に叶いそうな本を告げてみる。そうした後で、ごく当たり前に返答のできない自分に戸惑う。彼女が自分を守るために張り巡らせている針のせいかもしれない、なんて人のせいにしている。私は私の暮らしを愛しているのに。

 夜が更けて店を後にする。ノースリーブの肩に当たる空気はほんの少しだけ秋を孕んでいる。隣を歩く彼女の足元でしっかりと手入れされて曇りのない真っ赤なエナメルのパンプスが光っている。夜空の高いところに月が上がっていた。
「ねえあの月、何色に見える?」
 つい聞いてしまった。
「さっき飲んだシャルドネの色かな」

 思ったよりずっと素直な答えが返ってきた。彼女のヒールのコツコツというリズムが昔と全く変わっていないことに気づく。あの頃は私の靴も呼応していたけれど、今は私の足元はフラットシューズで、高い音は刻まない。別れ際のたわいのない会話が眠りかけた街に溶けていった。

「毒がないのが私のコンプレックスなのか」
 彼女と別れた瞬間、唐突な答え合わせのように、言葉が浮かんできた。もちろん私にだって毒はある。けれどその毒はあまりにも頼りなくて、彼女のそれとは比較にならない。彼女だけじゃない、あの人もこの人も、何人もの顔が浮かんでは消えていく。これまで自分が一歩引いて生きている理由がわからなかった。けれどなんだか無性に悲しくなることがあった。今夜その理由が腑に落ちて呆気にとられてしまう。

 私は毒が欲しかったのだ、と。赤いエナメルのハイヒールを履きこなせるくらいの程よい毒を持っていたかったのだと。そうかそうだったんだ。なぜだかにっこりと微笑んでいた。これでようやく捨てられる。ずっと靴箱にしまったままだったあのブラウンのハイヒールを。

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小牧部長、今週もよろしくお願いします。
次回は久しぶりにUKよりお届けいたします😊

いただいたサポートは毎年娘の誕生日前後に行っている、こどもたちのための非営利機関へのドネーションの一部とさせていただく予定です。私の気持ちとあなたのやさしさをミックスしていっしょにドネーションいたします。