詩と暮らす#シロクマ文芸部(エッセイ)
詩と暮らす、それは、息をすることと同じくらい当たり前のことになっている。暮らすことは詩そのものだから。
どうして詩だったのか、といえば、たまたまだと思う。人は誰もが「ポエジー」を持っている。そのポエジーをどう扱うかは人それぞれ。絵画を描く人もいれば、踊る人もいるし、脚本を書く人もいる。土を練って陶器を作る人もいれば、ガラスを吹く人もいる。料理人になる人もいれば、経営者になる人もいる。ごくごく普通の(と言われているけれどすごく大切で稀有な)主婦でだったり主夫だったりする人もいる。誰もがどこかにポエジーを持っている。ひとつひとつ説明はしないけれどそういうことだと思う。
そこに意志が加わってそのポエジーから何かを作り出そうと意識する人もいる。作家だったり、画家だったり、ダンサーだったり。その一つが詩人というものだ。かといって、私が自分を詩人だと思っていたかといえば、40年以上書いていて、そう思ったことはあったかなかったか。詩人と名乗ることにすら未だ抵抗を感じている。なぜ名乗るようになったのか、というのはまた別の話だけれど、それもほんの五年前くらいからだと記憶している。
ざっくばらんに書いてみよう。いわゆる公募や賞といったこととは無縁だった。出してみようなんて、夢にも思わなかったのはどうしてだったのかわからないけれど、ただ書いていれば、満足だった。ありがたいことに周りのお膳立てで、大きな詩人会に所属するようになったのはコツコツと続けたことに対する自分なりの自分への慰労だったけれど、未だ幽霊会員である。堂々というほどでもない。その肩書きは必要かといえば、それほどでもない。私よりもっと大きな志を持って日々詩と向かい合い、精進されている方はたくさんいて、世の中にはたくさんの素晴らしい詩が存在する。知らないままの作品も多いと思うが、私の周りの詩人たちはいずれも偉大で素晴らしい人ばかりだ。本当に尊敬している。同じように、詩人以外のポエジーも、言ってしまえば、人間だけでなく、虫も鳥も魚も、全てを取り巻く、全てから生まれてくるポエジーにとても感動し感謝している。
じゃあ何したいの?という話だけれど、ただ書きたい、ただ湧き上がってくる、ただ、そこにある、ということで、冒頭の暮らすことは詩そのものだ、という言葉に戻る。そして、私の日常からふと紡がれる言葉が、もし許されるのならば、少しだけ誰かを慰めたり温めたりしてくれればいいと思っている。誰かの心に差し出される一本の花のようであれと願っている。野に咲くぺんぺん草でもいい。長く書いてきて、そのようなことがあるのなら、それほどの幸せはない。ただありがたい。
詩と暮らすことは、私と暮らすこと。毎日の中に喜びも悲しみも全部があって全部がいいと思うこと。生きることそのものが詩、なんていう幸せなんだろう。
ここまで結構力んで書いてみたけれど、なんてことない、もっと気楽。らんらんらんと鼻歌を口づさ見ながら、肩の力を抜いて、私が怠けていても、どこかへ行ってしまったりしない。詩とはなんて心が広く私に優しいのだろう。
小牧部長、今週もありがとうございます。
お題がお題だったので、お話を作ることは私には難しすぎました。
エッセイで参加します。
たまには熱く語ってみました。うふふ。
なんか頬がほてってしまうま🦓