宮迫博之さんと田村亮さんの謝罪会見からみえるもの
窮地に立たされた時に露(あらわ)になる2つのもの
昨年メディアでとりあげられた、宮迫博之さんと田村亮さんの謝罪会見。
みなさんはご覧になりましたか?
私は普段、芸能ニュースをまったく見ません。
はっきり言って興味がないからです。
と言うか、日本のマスメディアの放送のアプローチの仕方が嫌いだからです。
バカの一つおぼえのように騒ぎ立てて、視聴者に不安を煽っているようにしか見えない。
芸能人がひとたびミスをすれば、こぞって放送し、すぐに批難する。
コメンテーターのコメントも、まったく建設的ではなく、はっきり言って「あんた何様?」と逆に思ってしまいます。
だから、見ません。
イライラすりだけで、わたしにとっては時間の無駄使いになります。
さて、話が少しズレましたが、宮迫博之さんと田村亮さんの謝罪会見。
放送された当時は、いつものようにまたメディアが騒ぎ立てている(-_-)うるさいな~と思い、素通りしていました。
が、しかし。
なぜか今回は気になったので、見てみることにしました。
そうです、直感に従って行動してみました。➡ 「直感」に従って行動すると自分の望む人生が向こうからやってくる【幸せになりたい人へ】
ノーカットで全部、見ました。
そうすると、直感で思った通り。
宮迫博之さんと田村亮さんの謝罪会見から「気づき」がありました。
それを今回はみなさんとシェアしたいと思い、記事に残すことにしました。
まず、結論から言います。
人間は窮地に立たされた時に、
その人の「本性」そして「器の大きさ」が露(あらわ)になる
人間はウソをつくと苦しくなるようにできている
この2つを会見から伺い知ることができました。
では、詳しく見ていきましょう。
人間性がみえる
1.その人の「本性」そして「器の大きさ」が露(あらわ)になる
人間、波に乗って調子がいい時にはいくらでも「いい顔」ができます。
人気があればなおさら「素敵感」「憧れ感」「キラキラ感」が2割増し、3割増しになってみえる錯覚の相乗効果が働くからです。
本人も気持ちに余裕があります。
余裕があると人間は他人に優しくできます。
しかし、窮地に立たされた時はどうでしょう?
「焦燥感」「自己嫌悪感」「罪悪感」「絶望感」がその人の思考と精神を支配し気持ちに余裕がなくなります。
余裕がなくなると、人間は他人に「本性」を露(あらわ)にするのです。
そして「器の大きさ」が露呈されてしまうのです。
いつもは男らしくたくましいのに、いざという時は我先に逃げてしまった...。
いつもは頼りないのに、いざという時は助けてくれた...。
まさにその人の「人間性」が試される瞬間です。
会見では、2人の人間性が包み隠さず正直に出されていました。
確かに、直接的ではなくても反社会勢力とのつながりでお金を得たことは悪いことかもしれません。
しかし、宮迫さんは逃げることなく、目をそらすことなく、まっすぐ前を見て「誠意」を表していました。すべての責任は自分であり、後輩を守る、そんなたくましい覚悟とともに会見に臨んでいました。その様子から宮迫さんの「潔さ(いさぎよさ)」と「男前さ」を感じました。質問を受けた各メディアにも、1人ずつ丁寧に対応し、思いやりがある様子、人を楽しませたいというサービス精神がある様子、それがゆえにたまに失敗をしてしまう様子。そんな人間性が垣間みえました。
亮さんは、宮迫さんとはまた違い、早い段階から涙を流し「とにかく申し訳ない」「今日は真実だけを話すと決めてきた」と純粋でまっすぐな覚悟を決めて臨んでいました。応援してくれている周りの人へウソをついてしまったことが一番謝りたかった、そして一番後悔していること、そんな様子が伝わってきました。
2.人間はウソをつくと苦しくなるようにできている
今回の事柄が発覚した当初、宮迫さんと亮さんは「ウソをついていた」と会見中に何度も話をされていました。
しかし、時間が経つにつれて事の重大さを実感し、ほんの軽い気持ちでついた1つの小さなウソがどんどん2人の精神を「罪悪感」で蝕んでいきました。
その「罪悪感」に耐えきれなくなった2人は所属先の会社である吉本興行に何度も謝罪会見をさせてほしいと歎願(たんがん)したそうです。
会見を見ると、宮迫さんと亮さん2人ともが、心の底から申し訳ないと自らの過ちを公の場で認め、「真実を話して、被害者に謝りたい」...という願いにも似た想いが画面を通して100%、いや、120%伝わってきました。
このピュアなエネルギーは素晴らしいものです。
内容は「謝罪」でしたが、宮迫さんと亮さんのこの「まっすぐな想い・エネルギー」はある意味、わたしたち人間の心を「浄化する働き」さえあると思います。
会見を見ていて、ある種、わたしの心が洗われました。
1つの小さなウソからここまで苦しんでいる姿を見て気づいたのが、
「人間はウソをつくと苦しくなるようにできている」ということ。
とてもシンプルですが、真実です。
「懺悔」(ざんげ)という言葉があります。
教会で牧師さんに懺悔をする。
なぜ、この「懺悔」という行為や風習が生まれたのでしょうか。
これは紛れもなく、人間がウソをついたら苦しくなるようにできているから。
それを「解放する手段」として人々に必要とされて誕生したのです。
「ウソ」という誰にも言えない罪を背負うことが、どれだけわたしたち人間にとって大きな「贖罪(しょくざい)」なのでしょうか。
「ウソ」は、つき通せ。
「ウソ」は、墓場までもっていけ。
そのような言葉がありますが、それができないから人間は「懺悔」をするのです。
死ぬまで「ウソ」をつき通す、これが一番の「贖罪」なのかもしれません。
以上、
窮地に立たされた時に露(あらわ)になる
その人の「本性」そして「器の大きさ」
人間はウソをつくと苦しくなるようにできている
この2つを宮迫さんと亮さんから気づかされました。
そして、もう1つ2人に共通していたこと。
それは、吉本興業を一切、責めなかったことです。
窮地に立たされた時、人間は他人に責任をなすりつける習性があります。
「自分は悪くない、あの人が悪い」と責任を転嫁する。
吉本興業は、謝罪会見をすることをずっと反対し、やるなら引退か契約解除の二者択一を迫っていたようです。
それにも関わらず、宮迫さんから出た言葉は「18歳から30年間お世話になった会社です。感謝しかありません」と責めるどころか感謝の意を口にしていました。
亮さんも会社に対してどうこうしようとは思わない、会見の目的はただ謝罪をさせてもらいたい、その想いだけですと話していました。
この窮地に立たされて浮かび上がった宮迫さんと亮さんの「人間性」。
事の発端は悪いことかもしれない、けれど2人の「人間性」には賞賛はあっても批判はないのではないでしょうか。
わたしたちが学ぶもの
この謝罪会見からわたしたちが学ぶものは大きいです。
宮迫さんと亮さんの「人間性」から気づかされた
いざという時に「あるべき姿」
そして「正直であることの大切さ」
批判している人は、「人のふり見て我がふり直せ」であることを肝に銘じるといいのではないでしょうか。
他人を批判するほど、あなたはできた人間ですか?
批判や人の粗探しをしている暇があれば、その時間と意識を自分に向けて、1ミリでも多く自分が幸せに感じられるようになったほうが遥かに生まれてきた甲斐があります。
「やっぱり芸能人ってそうなんだね~」と
他人の失敗を批判して終わる。
そんな時代は、もう終わりました。
他人の失敗から、批判ではなく「学ぶ」のです。
自分の目で見て、自分の心で感じるのです。
そうすると、必ず「気づき」や「直感」が生まれます。
誰かに頼るでもなく、誰かに依存するでもなく、自分で感じた「気づき」や「直感」ほど信じられるものは他にはありません。
無敵ですよ。
この「感覚」に素直になりましょう。
この「感覚」にニュートラルな自分でいましょう。