love once upon a time⑦

またまた時代は戻り1995年 短大2年生
マレーシアとの出会い

クラスは違うけど共通のともだちがいた子にマレーシア研修旅行をおすすめしてもらった。その子は1年生の時も参加して、「(わたしの名前)好きだと思うよ」と。興味を持ってすぐに参加を決めた。
企画は大学の国際交流センター。言い出しっぺはセンター長の羽根田さんだったんだろう。当時おいくつくらいだったんだろう。学生たちにアジアを見せたい、とNGO団体OISCAと企画してくれたマレーシアサバ州での農業植林体験ツアー。羽根田さんはさいごには幼稚園の園長さんを勤められ、大学構内か近くでバイクにはねられて数年前に亡くなった。亡くなった日の夕方、わたしは子の子育てのことを羽根田さんに相談したいなと車を運転しながら考えていた。
あんまり覚えていないけど当時Kota Kinabaluの空港はまだ古い建物だったはず。そこからバスに乗りKKより南に位置するTenomに向かった。今改めて見てみるとTenomって縦長。だんだんジャングルの中の田舎道に入る。そこに乗っていた農業研修センターの先生だったのかな この木は枝や葉っぱが空に張り付いてるみたいに見えるよ、と教えてくれてわたしは窓から空をずっと見上げていた。葉っぱは空に張り付いていた。
研修センターの敷地に入ると褐色の肌の研修生達が叩くGong(ゴング)の音。ジャングルの中異空間に迷い込んだようでゾクゾクした。
OISCA Tenom農業研修センター(正式名称は知りません)。50人程のサバ州の若者たちは1年目の研修生。日本人の男性先生が3名いた。2年目の研修生も10名くらいいた。ここで大学、短大の学生たちが2週間農業、植林を体験する。
女性が泊まるところは高床式の女子寮と地面と同じ高さの建物と2グループに分かれた。最初の夜暑くてふつうの夏みたいに薄着で寝ると、、ものすごい勢いで蚊にさされ、わたしは両足くるぶしから下だけで120か所くらい刺された。もう痒くて夜も眠れない。夜中痒くて起きてキンカンで足をさすっているとゾンビのように蚊にさされをかいている女の子が数名いた。昼間暑い中農作業をして寝たいのに痒くて眠れないという苦悩。翌日からは暑くても長袖長ズボンにタオルケットみたいのを頭までかぶって寝た。高床式の女子寮ではこの苦しみはなかったらしい。
わたしたちはグループに分かれて研修生と作業をする。草刈り、田んぼの鳥はらい、ピーナッツの殻剥き、収穫みたいな簡単な作業。作業しながらみんなが喋るマレー語を教えてもらい腕にびっしり書いて作業後にノートにまとめる。初めて教えてもらったマレー語は痒い (gatar)、蚊 (nyamuk)、草刈り (potong rumput)、鳥を追いはらう (halau burung)、パッションフルーツ (markisa)みたいな大地に根差した言葉たちだった。暑かったけどからだを使う作業は楽しかった。何より同年代の研修生たちとの交流が楽しかった。
朝は5時半だったかな に起きて寝床を整え、6時に点呼で校庭みたいなところに全員集合する。軍隊っぽい感じで静けさの中鳥の声を聞きながら点呼をする。この時各グループの1番目の人が点呼の最初の呼びかけを言う(叫ぶ)んだけど、日本人はこれを初めは日本語で言っていた。ある日「マレー語で言おう!」ということになってわたしたちのグループはピーナッツの皮を剥きながら1番目の大学4年の男の子が一生懸命マレー語で覚えた。わたしは2番目だったので「1」(satu)とマレー語で叫べばよかった。
朝 張り詰めた空気の中マレーシア人研修生たちの点呼が終わり日本人の番。となりの4年生の子の緊張がめっちゃ伝わってくる。彼は大声で 
"Barisan (大学の名前)satu, siap sedia untuk dipriksa. Dari kanan, angkat!"
「(大学の名前)1,点呼の準備ができました。右から!」と力いっぱい叫んだ。わたしたちはそれに続いて1,2,3,4,5とマレー語で叫んだ。点呼が終わった瞬間その場にいた人たちがみんな「わーーーー!!!!!」と叫んで、彼のがんばりを称えた。みんな感動していた。

研修センターには左右に女子寮、男子寮、男子寮の方に事務所や先生たちの住む家があり、真ん中はごはんを食べたり集ったりするホール、Dewan Makanがあった。ごはんは作ってくれるおばちゃんたちがいる。センターでとれた長豆とか、空心菜とか、野菜1品、お肉の少ないチキン(マレー系の人はイスラム教徒で豚肉を食べない。色んな民族が集まるとき食べる肉は主にチキン)がつく日もある。それとチキンからとったスープにドサッと真ん中にごはん大盛り。暑い作業のあとごはんにチキンスープをかけて食べるのがとてつもなくうまかった。朝昼晩の食事の他に朝、午後と2回休憩もあって、甘いお茶とビスケットとかをもらった。

植林はTiulonという場所に日本人男性がひとりで担当していて、そこに行ったと思う。ジャングルの中を草をかき分けて歩くのにひとり1本 parangだったかな、刃の長い剣みたいのを渡されて目の前の草をはらいながら歩いた。立っているだけだけど木から赤蟻が降ってきてTシャツやロンTだと首から入って背中を刺される。赤蟻は痛いのでジャングルに入るときはサラリーマンみたいな薄いシャツを着て、首にタオル(今なら手拭い)を巻くようになった。これは今も続くわたしの作業スタイル。植林を担当していた人は長年ひとりでこの僻地に住み、こうやって日本人グループや現地の人が植林をしたあとそれが育つようひたすら草刈りをしたり地道な作業を黙々としていた。冷蔵庫は氷を買ってきて冷やすタイプだった。後にKota Kinabaluに住んだときにこの人を訪ねたことがあったけど、浅い川を車で渡ったりすごくアドベンチャラスな生活だった。車では「酒と涙と男と女」がかかっていた。
植林に行ったときセンターのあまり日本語が上手じゃない先生に「わたしいくつに見えますか?」と聞かれた。慣れない外国の人だしよく分からなくて「50才?」と聞いたら「ちがいます」「60才?」「ちがいます」「え、70才?」と聞いたら36才だったかな、、。わたしは今も人の年齢が分からない。
2週間の間にTenomの町にも連れて行ってもらった。小さいお店しかないけど、そこで長さが10cmにも満たない英語 - マレー語の辞書が売っていてそれを買った。

毎日研修生たちといっしょに作業して、マレー語を教わって、日本語を教えて、ごはんやおやつを食べて、いっしょに歌をうたって、いっぱいおしゃべりして、magicalな2週間はあっという間に過ぎた。

最後にシンガポールに1泊する、というのがあったけどシンガポールの都会さは全然おもしろくなくてすでに「サバに帰りたいな~」と思っていた。

実はこのとき研修生のひとりと淡い恋をしたこともあり わたしはすっかりマレーシアにはまり、卒業後は中国に行こうと思っていたんだけど考えを変えてマレーシア、サバ州に行くことにした。あては0だった。


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