この現実、自分の立ち位置

最近前なら我慢していたことを我慢しなくなっている。
先日のこどもキャンプ。(これはわたし目線からのsotry)
カレー2種の1種類をわたし主導でつくった。
途中、「ごはんがすすむように味は濃いめで」と言っているひとがいた。このメンバー、立ち位置はみな同じはずだけどこのひとは他者にいろいろ言いたがるので皮肉もこめてこの場では「師匠」とよんでいた。
もうできあがるというタイミング、もう1種のカレーは「味が足りない」とどんどんスパイスやらいろいろ足している。わたしはいつもつくっている豆カレー。味付けはスパイス2種と塩のみ。

頭の中で組み立てる。他の副菜もどんどん味を足している。このレパートリーのなかでわたしのカレーも味を濃くするのは、、、なしと判断。
みんなが味見をして、口々に「味がうすい」と言ってくる。わたしの中で味はもう決まっている。全体の中でのバランス、このカレーの役割は明確。さらにスパイスを油でテンパリングして足したい?No. 醤油とかほかの調味料足したい?No. 塩はすこし足して、タマリンドの代わりにリンゴ酢を入れて完成。他4人のメンバーが口々に「味がうすい」と言ってくる。
わたしがちょっと席を外すと、他の4人がわたしのカレー鍋の前に集まってまた味見をして、「味がうすい」「味がうすい」と言っている。わたしはキッチンに入っていって、「わたしがいないところでそうやって言うの悪口だろう」と伝える。傷つく。

このメンバーとは長年いっしょに料理をしたり、持ち寄りを持ち寄っていっしょに食べたりしてきているのに全然わたしがつくるものの役割、立ち位置を理解してないし、わたしのおいしいに信用がないんだな、とがっかりする。そして「おいしい」は主観なのに自分の味にこだわって他者を否定してしまえることが理解できなかった。がっかりはしたけど譲らず、そのままの味で提供。バランスのいい食事になったし、食べたみなさんからも好評をいただき寸胴いっぱいのカレーは翌朝の朝ごはんで売り切れた。
これまで我慢してきたつもりはなかったけど、こういう扱いを受けることを自分にゆるしてきたのだな、という感触がのこった。

過去のわたしはこのメンバーでのけ者にされるのが怖くて一番強めに出てくるひとにあまりものを言えなかった。他のひとたちも言わないひとが多かったと記憶している。
今思うと何を我慢していたんだろう、と感じる。

今自分が置かれている立場、役割はこれまでの自分がつくりあげてきたもの。それを観察して、そんな自分を責めるでもなく、もうやめた方がいいことはやめていく。

わたしは移動で車を出すことが多い。運転好き。でも会計がグレーなグループだとモヤモヤする。長距離でわたし以外の人がわたしの車を運転するなら1日保険に入ってほしいと思っている。もらい事故でも何でも、事故が起こったとき運転手は莫大な支払い義務を抱える可能性があると考える。そんなとき「ともだちだから半分出すよ!」とは言えない。
この夏いっしょに旅行するふたりが、わたしの人生で初めて自分たちから「1日保険入るよ」と言ってきてくれていたく感動した。これは社会的には当たり前のことなのかもしれないけど、わたしのまわりにはそういう人はいなかった。免許のないひとりは「じゃあその保険料わたしが出します」と提案してくれた。
ここで思い当たるのは、金銭的な自立大切だな、ということ。それが↑こういう余裕をうむひとつの要因に思える。

自分を大切にする、を意識して生きるようになってから知り合ったともだちとは比較的愛が循環する関係を築けていると感じる。自分の立ち位置を変えるのは自分だ。

あさっては文月朔(新月)。
必要な扉を閉めるにはよきタイミング

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