「川の流れの果て」(6)

6話「男と影とお花の微笑み」



それは師走の始め頃のある晩、吉兵衛がお花を近所に使いに出した時の事であった。

「ああ、遅くなってしまった、もうお客が多くなってくる時分なのに…」

お花は独り言を言いながら、父に頼まれた品物の包みを抱えてはしはしと歩き、土手を通って早道をしようとした。

辺りは薄紫色の濁りがすべてを包み込んで闇へ葬っていく最中で、一瞬一瞬暗くなっていく。堤防の上に上がって川岸を歩いていると、川端に鬱蒼と茂る葦が、どす黒くて大きな怪物がこちらをじっとり狙いながら横たわっているようであった。

それがざわざわと風に騒いでいる音が自分の背中を急かしているように感じ、お花は辺りをきょろきょろと見回して怖がり、「早く何か灯りが見えないか」と必死に歩いていた。

やがて店の少し手前にある「往来安全」と書かれた行灯が見え、お花がやっとほっとした時、その足元に誰か男が蹲っているのが見えたので、ぎょっとして一度立ち止まる。立ち止まりはしたが、進まなければ店へ帰れないので、仕方なくその男が蹲っている行灯の左側ではなく、右側を行こうと、おずおずと足を踏み出した。

「お花さんじゃねえかい」

行灯の傍の男に名を呼ばれてお花はびっくりしたが、「知ってる人だったのかしら」と安心しかけた。そして男が大儀そうに立ち上がって顔を行灯の横に並べると、そこへ、蛇のように抜け目の無さそうな目と、額に残った刀傷が浮かび上がった。

「あ、あ…」
お花は恐怖した。なぜなら、この男は、前々からお花を付け狙っていた町内の悪だったからだ。


親分の手下とさえ小競り合いをして、「その筋でもない小物を相手にしては、自分達が奉行所から睨まれる」と親分が手下に言い含めなければ、額の刀傷などでは済まないような、あくどい人間であった。

入れ墨者の乱暴者で横柄で、そんな者を置いてくれる長屋の主があるわけもなく、普段は寺の軒下や橋の下で寝起きをしていたが、博打で嫁いだ金でしょっちゅう柳屋に来ては、町内で評判の美人であるお花に対して、気安く下品な口説き文句をぶつけて、それを恥とも思わない男であった。

あくどい男らしく、父親である吉兵衛の居る前ではお花に手を掛けるような事はせずにへらへらと笑っており、吉兵衛に対しても当たり前の世辞をいつも言い添えるのを忘れず、「あの人はそう悪いとも思えないんだがな」と、人の好い吉兵衛になら簡単に言わせるまでに、繕いが上手かった。

そんなものだからお花も「しつこく言い寄られて困っている」と言い出す事も出来ず、「もう来なくなってくれないか」と祈るばかりであった。


その男が今、闇に乗じて自分を待ち伏せていたのかもしれない。そう思うと、お花は「逃げなければ」と思うのに、竦み上がって何も出来ないのであった。

「考えてくれたかい、この間の件よ」
男は薄く笑い、何気なく横を向いてそう言う。
「な、なんの、ことでしょう…」

お花は感づいていた。この間店へ来た時に、男は膳を運んできたお花の腕をいきなり掴んで、「俺と逃げて、田舎へ行って一緒になろう、出来なきゃおめえを殺しちまうからよ」と、脅してきたのだ。

まさか、それが今決されるのかと思うと、お花は恐ろしくてそれ以上口を利けず、かといってもう逃げたり抵抗したりする気力も奪われてしまったのか、手元の荷物に抱き着いて、なんとか立っていた。

「俺ぁ今、こいつを持ってる。なんのためかお前も分かるだろう。うんと言ってくれ」

そう言って男は出し抜けに懐からドスを取り出して鞘から抜き、お花を睨んだまま刃先をお花に向けた。

お花は驚きに息を止めて目を見開き、返事をしなかった。自分に向けられた鋭い切っ先を見つめ、それが自分の腹を裂き、自分がその苦しみに悶えて息を絶えさせるのを思って、ガタガタと震え、泣き出す。涙があとからあとから溢れては地面に落ちた。

「ちぇっ、聞いちゃいねえ」
男は泣き続けるお花をつまらなそうに見やってドスを軽く一振りすると、「やっちまおう」と決めたのか、それとも連れ去ってしまうつもりなのか、ずんずんお花に近づいた。

「…あ…!」

お花が声にならない叫びを微かに捻り出した時、突然闇の中から何かが男の頭に突き当たって、男は「いてえっ!」と声を上げた。

辺りはもう暗闇になっていて様子は分からず、しかし男は土手から下りた道の方を見つめている。お花はわけもわからず泣いていたが、何かが男の邪魔をしたのだけは分かったらしい、お花も釣られてゆっくりと、男が睨んでいる闇の方を見つめた。

「誰だ!そこに居んのぁ!」
男が金切り声を上げたのでびっくりしてお花がまた男を見つめると、今度は飛んでくる石が男の腹に当たるのが、お花にもはっきり見えた。

「ちっくしょう!」
男は自分に向けて石を投げてくる何者かに怒り狂って、お花を放って土手を駆け下りて行った。お花はそれを見て「どうやら助かったようだ」と思い、ごく細くにして堪えていた息をゆっくりと緩めていった。
だんだんとその体を自分のものに取り戻すと、お花は震えて動かない足を一足出す。そして、そこから先はまるで今、男に追われているように、店まで一目散に駆けて行った。



「おめえか!さっき石を投げたのぁ!」

暗い土手下の道で、二人の男が対峙して睨み合っていた。一人は影のように暗闇に立って仁王立ちの輪郭が微かに見え、黙っていて、顔も見えなかった。

もう一人は今しがたお花に向けていたドスを今度は影に向かって差し出しているさっきの男だ。
近くの店の裏口に提げてある提灯の灯りで、額の古傷の横に、赤い血の筋を垂らしているのが見えた。

「なんのつもりだ!ただじゃあおかねえぞ!俺がどんな者か知って手え出したってんなら、分からせてやる!」

額に血のある男は憤然とそう叫び、暴れ馬のように影に向かっていこうとした。

「お花さんにこれ以上手を出すなら、おら、許さねえだ」

闇に立った仁王立ちの影は、落ち着きながらも憎々しい調子を抑えず、そう言い放った。
影に向かっていこうとしていた男はつんのめったように立ち止まってしばらく黙っていたが、ぷっと吹き出すと、大声で笑い出した。
「ははは!許さねえ、だとよ!」
血を流している男は、腹を抱えて笑った。

「何がおかしいんでぇ」
影は静かにそう聞いて、どうやら手に持っていたらしい石を二つ投げ捨てた。ごろりとそれが転がって、やがて道に黙って座ってしまっても、血を流す男は笑い続けた。そして笑うのをやめた時、影に向かって喋り出す。

「あーおかしい。何がっておめえ、お花は誰とも縁付けられちゃいねえ。おめえはどうせお花に岡惚れしてるどっかの馬の骨に過ぎねえんだろうし、顔は見えねえがおめえは声はかなり若えし、喋りっ調子もどうやら江戸の者でもねえ…なのにこの俺に石をぶっつけて邪魔して、「許さねえ」なんて偉そうに言うからおかしくって堪らねえんだよ…馬鹿にするねぇ!こちとら酸いも甘いも噛み分けた、江戸の「入れ墨文蔵」だぁ!てめえなんかの相手じゃねぇ!」

そう言って啖呵を切った「入れ墨文蔵」に対して、影は怯えることもなく平然とその場に立ち続けた。

「おめえさまがどんなお人だろうと、おらそんなことはどうでもいいだ。おらが誰だろうとどうでもいいだ。ただ、お花さんを怖がらせるのはおらが許さねえし、おめえさまがお花さんをどうにかしようってんなら、おらはどんな手を使ってでもやめさせるだ」

影がそう言った声は落ち着いていて、闇の中から聴こえてくる声に迷いはなく、それは、底の知れぬ怪しさを感じさせた。それでも文蔵は大して気にもかけていない風で話を続ける。

「なんでい、俺ぁもちろんお花を諦めやしねえぜ。そしたらどうする。殺しでもするってえのか?」
へらへら笑いながら文蔵がそんな脅し文句を言うとしばらく影は黙っていたが、闇の中からため息が聴こえた。

川を通る風がぴゅうぴゅうと鳴って草を騒がせる音が響いている。二人の居る小道は誰も通らず、どの家も皆もう寒い風を防ごうと閉まりがしてあって、もちろん二階の障子を開けている近所の家などあるわけもない。

誰にも知られる事の無い、冷たく暗い、冬の夜だ。おそらくはここで何をしようと、誰もそれを知ることは無いだろう。

文蔵はふと、背後からの冷たい風が、影の居る闇に向かって集まっているような気がした。

「仕方ねえなら、おら、そうするだ」
「あん?」
「おめえさまがそうしねえとお花さんに乱暴するのぉ諦めねえなら、おら、そうするしかねえだ」
それを聞いた文蔵は怪訝そうな顔をして、やがて地面にぺっと唾を吐いた。そして、横を向いたままで、ギロッと影を睨む。

「…勝手な理屈だな、おめえのぁよ。だってそうじゃねえか。お花から「あいつをあの世へ送っちまってくれ」なんて、頼まれたわけでもなさそうだ。」
影は黙ったままだったので、文蔵はもう一口喋って相手を負かそうとした。

「俺ぁ別にお花ぁいたぶろうとしてこうしてるんじゃねえ。お花に俺のモンになって欲しいだけだ。俺ぁ、俺のやり方でお花ぁ口説いただけだ!その俺をどうしてえかはお花の決めることでい!おめえはそれを勝手に思い込んで、結局自分の邪魔者殺してえだけじゃねえか!」

そう怒鳴って影をへこませようとした文蔵は片手を大きく振り下ろしたが、影はゆらりとも動かなかった。

「おらはお花さんのことは諦めるだ。だからおめえさまもそうするだ。じゃなきゃ、今ここで殺すだ」

影は仕方なそうにそう言い、文蔵の事は放って、道に落とした石をもう一度拾いに身を屈めた。その後ろ姿には、とても人を殺そうとしているような殺気は無かったが、反対に、人を殺す事への躊躇いや怯えも見えなかった。

「勝手な理屈の次ぁ、こっちになんにもいいことがねえ取引かい…てめえの頭はどうなってんだよ…」
そうは言っていたが、文蔵は躊躇した。

文蔵にはもう分かっていた。「こいつぁ、本気だ」。道理も決まりも影には関係の無い事で、お花がどう願うかすら大して気にもせず、「お花が危ない目に遭わない」ようにする。それが目的だというだけのようだ。

立ち上がった影の黒い輪郭は、自分が右手に持った石と、文蔵の頭を見比べて、うんうんと頷いているように動いた。

「どうするだ」

影は命のやり取りを迫っているというのにどこか気の抜けた声でそう問い、一足こちらへ進む。闇の中から、足だけが見えた。細く頼りない、白い足だったが、それがもう一歩こちらへ近付くと、右手に持ったごつごつした大きな石が、鈍い光を返すのが見えた。

影の手はしっかりと指を開いて石をむんずと掴んでおり、それを今すぐにでも文蔵の頭へ振り下ろせるようにか、緩く上下に振っている。

文蔵は影の持つ石と、自分のドスを見比べた。こちらに分があるのははっきり分かっているのに、どうしても動けなかった。

文蔵の耳元で誰かが、(ただ殺す気でいるのと、自分がどうなろうとも相手の息の根を止める気でいることは、全然違う)。そう囁いた気がした。

この男は、もう自分に狙いを定めている。しかも、こちらが何を言っても、もう聞き入れそうにない。

おそらく今、この男は、自分を殺す事しか考えていないだろう。一心に、お花の身を守るためと思い込んで喋っている内に、あっという間に殺意に呑まれてしまったようだ。
文蔵はそれを肌で感じ取り、踏ん張った脚に力を入れる。

(こいつぁ、手を出したら、先に引いた方が必ず負ける。奴ぁ死んでも引かねえだろう。とすると、俺も命懸けで奴を殺さなきゃなんねえ。ちぇっ、つまらねえ野郎だ…)、文蔵は心の中でため息を吐いた。

文蔵は目の前の男が怖いわけではなかったが、何の恨みもなく人を殺してでもお花を手にしたいわけでもなければ、死ぬのが怖くないわけでもなかった。

(逆に言やあ、ここまで思い詰めなきゃ、こいつは俺を殺そうなんざ、思いつきもしなかっただろう。つくづく馬鹿真面目な奴が気が振れると、手に負えねえ)

文蔵はもうこの勝負からは逃げようと決めていた。博打と一緒で、持ち分を守るには、引き際を覚えなければならない。

しかも、博打とは賭けているものが違った。

惜しいとするなら、ただ一つ、目の前の男が勝手に思い込んで全てを投げ打ってしまったがために、自分が引かざるを得なくなった事くらいであった。

「さあ」
もう一歩影が足を進めると、前掛けごしらえの体と、首元までが提灯に照らされる。文蔵までもう二歩だ。

影がもう一足を出して、文蔵に向かって飛びかかろうとする直前、「今しかねぇ!」、文蔵はそう思い、一気に身を翻す。目の端に石を構えた真っ黒な瞳が見えた気がした。

文蔵は後ろを向いてひたすらに走ったが、一度だけ振り返った。
「てめえみてえなのが一番始末が悪いんでい!」
走りながら文蔵はそう悪態を吐いたが、影は追いかけもせず石を持った右腕をぶらぶらとさせ、満足そうに、「約束だでよ」とつぶやいた。



「又吉さん。はい、お酒と、鰤大根です」
一年ももう終わりに差し掛かるある夜、柳屋を訪れた又吉は、店に一人だった。いつもは門限があると言うが、その日は店の休みの前日だからか、それも構わず遅くに訪れ、もう店を閉める間近なので、「遅くにすまねえだあ。残ったもんで構わねえだでえ、煮物と、酒をくだせえ」と控えめに笑った。

吉兵衛は鰤大根の残りを温め直して皿に盛ると、又吉に「これから片付けたいんだが、いいかい、又吉さん」と確かめてから、鍋やまな板をハトバへ運んで、又吉が帰るまでの間、もたもたと煙草を吸っていた。

お花は、お客が又吉だけという、願ってもない事に喜んだが、父も居るのではしたない真似は出来ず、又吉に体を向けもせずにへっついに寄りかかって茶を啜っていた。

時たまちらっと又吉が飲み食いするのを見て、お花は以前父親と話した事を思い出して頬が熱くなり、胸が締め付けられる甘さを味わい、「おとっつぁんが言い出してくれないかしら」と、胸を躍らせて待っていた。

又吉は食べ終わって皿を膳に下ろすと、お花の方に首を向けた。

「お花さん」

お花はその時の又吉の目の優しさに、普段とは違う何かを感じ、急に胸が高鳴る。

息が苦しいわ。でも、返事をしなくちゃ。そう思って、お花はただ、「はい」と言った。

「体は大丈夫けえ。忙しそうだがぁ」
又吉が喋り出したのは残念ながらお花が思い描いていたものではなかったが、お花にとっては十分嬉しい事だった。
「は、はい、慣れていますし、大丈夫です。又吉さんこそ…」

自分はこんな声だったかしら、こんな喋り方を以前からしていたかしらと、お花は小さな事も分からなくなってしまいそうだった。

「おらぁ体が丈夫だでよ。大丈夫だぁ。それで、お花さん、心配事はないけ?」
そう言って又吉は少し酔っているのか、首をがくりと傾けた。

改めてそういう事を聞かれると、人は急には返事が出来ないものだ。お花はちょっとの間俯いて唇に手を当てていたが、特に思い当たる事は無かった。

(あの男も、そういえばもうあれから二十日は過ぎたけど、姿を現してないし…)とお花は思い出して、忙しい毎日を少しだけ振り返った。

お花は、あの時から暗い道を歩くのは酷く怖くなったし、始めの三日ほどは忘れられなかった。

店に居る時でさえ、「あの時は闇に乗じてだったけど、殺すだけなら店でだって出来るし、あの男がいつ飛び込んで来るとも知れない」と、怯えて過ごしていた。

だが、幸いに何もなかったので、忙しさの中であっという間に忘れてしまっていたのだった。

「ええ、何もないです、ご心配ありがとうございます」
お花がすっきりとした気持ちでそう答えると、又吉は納得したようにうんうんと頷いた。

「お花さんは綺麗な娘っこだでぇ、夜道にゃあ気を付けるでよぉ」
「いえそんな…ありがとうございます」

お花は、又吉が自分の悩みがどんなものか想像してくれていたと思って嬉しくて、いっそ一月前まで居た客の男の話を喋ってしまおうかとも思ったが、吉兵衛にも心配を掛けまいと思って話していなかったし、胸に仕舞って忘れてしまおうと思って、もう一口茶を啜った。

「じゃあおら帰るだでぇ、お代はいくらだがぁ?」
「三十文です」
「あいよ、じゃあ、遅くにすまなかったでねぇ」
「まいどあり、又吉さん」
「お気をつけて」

吉兵衛とお花は店先で又吉を送り出してから、お互いに何か言いたそうにしていたが、お花が吉兵衛を見上げると、吉兵衛はふふっと笑って、「奉公人はのれんを分けてもらうまで女房を持つわけにゃあいかねえ。お前も知ってるだろう」と言った。
お花は拗ねたように下を向いていたが、その唇には穏やかな微笑を湛えていた。


7話へ続く


次で最終話です。お読み頂きまして、ありがとうございます。

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