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蝋燭とレースに紡がれて


 ベルギーレ-スの教室で出会ったといえ、広島に住む彼女と関東の私が頻繁に交信し合えているのは、ほぼ彼女の懐深さに依っている。

 最近彼女はクロッシェレ-スのドイリーを編み始め、目を見張る早さでいくつも仕上げている。かぎ針の編み図を解く自信など完全に失せている私は、ただただ彼女の作品が出来上がるごとに、「素敵!綺麗!」を繰り返しすばかりだ。


 諸事情から延びにのびた自宅の改修工事が数日前に終わった。新しく設えた空間のひとつに、彼女お手製のドイリーがあれば、と思えて仕方がない。

1枚オ-ダしたいな!
甘え声のメ-ルに、どれがいい?
差し上げますよ、といつもの太っ腹な返信がその晩すぐにあった。


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 彼女と親しく言葉を交わすようになったのは、ベルギーとフランスをめぐる教室主宰のレ-ス旅だった。
たしか到着まもなく、ブリュッセルのレストランで大量のム-ル貝を食べた。旅の疲れが残るからだに多めのバターが彼女のお姉さまには堪えたのか、体調を崩されたようだ。次に訪れたブル-ジュのホテル近くのス-パで、同室のMさんと私がサラダやパンを買っているところに彼女姉妹と出会い、カゴに生鮮類がある訳を訊かれた。

 毎食キチンとした料理を食べていると胃が疲れるから、昼はホテルの部屋で簡単に済まそうと思ってね。

 胃の様子が芳しくなかったお姉さまが私たちの意向に乗られ、質素な昼をホテルの部屋で摂ることになった。そこで拡がったお喋りが、その後の私たちの交友に繋がった。


 旅の記憶をきちんと整理していないから、この日にあったことをMさんに電話で確認していると、ブリュッセルのスーパで買ったチ-ズを、あの4人の部屋ランチで食べたのかしら、という話に発展した。
 シメイというチーズで、買った店のどのあたりの棚でそれを見つけたまでしっかり覚えているのに、Mさんも私も部屋でシメイを食べたのかどうかがまったく思い出せない。しかしそのチーズの柔和な味わいへの感動が、私の味覚に焼きついている。それを他で食する機会はなかったはずだから、やはりあの部屋で食べたのだろうということで、話はおさまった。

 すっかり忘れていたシメイをブルージュの旅話から突然に思い出し、年末年始の家族の集まりにシメイを用意することにした。チーズより名の知られているビールのシメイも注文する。私の旅の記憶は、いつも必ず食材のことで結ばれる。
 

 三原のレース友はクリスマスに部屋の各所にキャンドルを配し、灯りを点けるという。家の工事が終わり、暮らしを楽しむ隙間ができたのだろう、そうだ、私も灯してみようという気分が生まれた。実はかつて収集してきたもののひとつに、蝋燭がある。旅先で箒と籠類、蝋燭に出会うと必ずそれを持ち帰った。平易な暮らしの中でも必要不可欠な物には、人としての共通する言葉が宿っているように感じていたからだ。



 ポリ-ニのピアノ演奏を、ザルツブルクとルツェルンのふたつの音楽祭で聴くことのできる音友社の企画あり、そこに参加した夏があった。日中は観光し夕刻になればおしゃれして音楽祭に臨む、優雅な旅だったが昼夜問わずの過密なスケジュールについていけるほどの体力があったわけだ。ザルツブルクの町で、花の彫り物のあるチロル風の蜜蝋燭を見つけた。


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 その旅は、先月他界した盛岡の友人と一緒した。
読めないドイツ語のメニューにふたりで四苦八苦しながら、それでも互いの嗅覚を信じ、かなり美味しい料理にもありつけた。ポリーニにサインをもらいたい、とコングレスセンターの楽屋裏での出番待ちにひとり残った私が、いつまでも部屋に戻らず、友人がどれだけ心配したかとか、ポリーニの宿泊ホテルと同宿だったものだから、もう今夜は一睡もできないわ、と興奮したのもつかのま、ふたりとも床に入るとすぐに寝落ちたではないの、何年しても思い出は尽きず互いの若さを懐かしみ、そして可笑しい可笑しいと笑った。


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 旅の最終日、ホテルで鏡に向かい化粧をしていた私たちのどちらが言い出したのだろうか。私たち、まぁよくも毎日毎日塗ったわよね。話が終わる間もなく顔を見合わせ笑い転げた。あの弾けるような声が蘇る。


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 思えば音楽と布に惹かれての旅がほとんどだ。ヴェネチアで暮らした年には、ウィ-ン楽友協会のバルコニー最前の席で、幸せなことにポリ-ニを聴いた。演奏会の翌日、列車の時刻まで市庁舎前のクリスマスマーケットを冷やかし、トラムを国立オペラ座の交差点で降りるとすぐに、「あっ、ポリ-ニがいる」と夫が言う。また私をからかって、と思った瞬間、私の視界にも本人がいた。


 あのときは断りなく写真を撮ってしまった、というより思考を飛び越え、手が勝手にカメラのシャッターを押していた、という感じ。交差点を渡りながら、本人に謝りの言葉をかけると、柔かな視線で応えてくれた。
 有頂天の私が昨夜の演奏の感動を伝えると、少しはにかなんだような面持ちで静かに私の拙い言葉を、最後まで聞いてくれた。

その前年のポリーニプロジェクトでは、『森は若々しく生命に満ちている』がタケミツメモリアルで演奏された。ノーノがベトナム戦争に触発され書いたもので、演奏終了後、ポリーニの楽屋に誘われる幸運にあずかった。私が夫の長兄はベトナム戦争の初期、取材中に赤いクメールに拉致され結局行方は分らずじまいだ、と小瀬村さんを介し伝えると、彼は両の手で私の手を包み込んだ。他者の痛みに寄り添うことは難しい。しかしあのときのポリーニの眼差しには、人の痛みにどう応えるかの彼の心が見えた。


 オペラ座前の交差点での偶然の出会い。彼との共通の知り合いの名を告げると、「Si」と大きくうなずいた。ちょうど一年前の初台での出来事を覚えていてくれたのかしら、と今でも勝手に思っている。


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 部屋のあちこちに好きを知る友人たちから贈られた、いろいろな蝋燭が置いてある。三原のレース友がキャンドルを灯したことに誘われ、私もそのいくつかに灯を点けると、不思議に心が静まった。

 時間に追われ前に進まねば、前に進まねばと命じてきたこの2年、いや妹の自死から思えば15年の長さを乗り越えられたのだから、これからは時を遡り過ごしていくのも悪くないな、そんなこんなを思う夕べだった。灯には、人を懐かしむ作用があるのかしら。



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