わたしよ、どこへゆく
最近、さむいね。
東京に暮らす者より。
気温で手足が冷たくなるのもあるけれど、
気分が、もっと極寒だ。
いままでも、寒い、寂しい、ツライはあったけど
こんなふうに「もうだめかもしれない…」と
絶望を繰り返すのは初めてだ。
ほんとに、だめかもしれない笑
貯金もできないし、かといって上手に駄々こねるのもできないだ!
…死ぬのかな?
うーん。
いや、生きたいな。まだ楽しいことも、しあわせなこともあるんだと思う。あるよ、きっと。
まだ居場所がみつからない。深く息をついて、この人たちと一緒なら、私なら、大丈夫。と心から安心できる場所に、辿り着けていない。
いまは、安息地帯にはいないけれど、それでも密かに小さな安心を注ぎ続けてくれるひとたちが、少なからず、いる。
わたしは卒業できるかできないかのギリギリ大学生だけれど、今日母と話したところ、どうやら実家ニートや引きこもりは許されてないらしい。
どうにか生きていくしか、ない。
空腹に耐えたり、心の中で自虐的な言葉を吐いたりして、どうにか自分を殺そうとしたけど
やっぱり、私はもっと生きたいらしい。
こんな自分はだめだ、今の自分では生きていけない、とわかってはいるけど、
わたしは、環境一つで、思いつき一つでどこまでも変わるタイプだ。
自分がない、軸がない、ということなのかもしれない
けれど、些細なことによろこんだり悲しんだりする自分がどこか、愛おしい。
陽に灼けた緑をうつくしいと感じ、部屋の壁のでこぼこした感触を気に入る。
理想論でしかないかもしれなくても、どこかで、自分を納得できる地点が、来る。
高校までは、自我がすくなかった。好きな人や、周りの人が決めたことについて行くことに、疑問を感じなかった。
大学生活を通して、人が決めたことに乗っかる楽さよりも、自分の好きや大事を貫くことが、もっと重要になった。
サークルもしない、飲み会もない、一人遊びとサボりがちな授業の往復で得たものはなんだったのか、とふわりと疑問するが
この5年間の低空飛行が、価値のある何かへのゆるい助走であることを、どこかで感じている。
わたしがこうありたいなと思うひとたちは、みんな自分の力で自分だけの世界を表現しているすごい人等だ。歌うたいや絵描きや写真家たち。
その人たちは、バーに住み込みで働いていたり、表現の仕事がないときは居酒屋で皿洗いしたり、お金が全然ないときだってあったらしい。
でも、表現するという拠りどころがあったから、つづいたのだろう。
私は、自分のワクワクすることもできないのに、お金もないなんて耐えられない。
かといって、興味のない仕事でお金があることはもっと、ちがうなと感じてしまうだろう。
家で一人で歌うとき、絵を描いたり、ものをつくったりするとき、わたしは解放される。
自分の手からできあがったものを、ものすごくいとおしい気持ちで眺める。
今日のヘッダーも、わたしの描いた絵だ。
このところ、他人の描いた絵ばかりを使ってnoteを更新していたのだけれど、なんとなく居心地がわるかった。
画家が描いた絵を、自分の文章と関連づけてしまうこと、そのことに危機感をかんじていた。
文章とかならずしとうまく噛み合わなくても、自分の撮った写真や、自分で描いた絵を、これからは使っていきたい。
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