見出し画像

自分の言葉に耳を傾けてもらえたら、とても嬉しいから

「だから、もう眠らせてほしい」の感想をまとめようとして、それがなかなか進まないのに驚きました。メモはたくさんあるのに、ひとまとまりの文章にするのが難しいんです。
死とか病気とか孤独とか格差とか、すごくたくさんの情報が含まれている本だからそうなるんじゃなかと思うんです。どうなんでしょう。

なんとなく、誰かに手紙を書くようにすれば書ける気がするので、そんな風に書いていきます。



この本の中で一番気になって、すごい反発を覚えたのが「まだ、耐え難い苦痛があるとはいえない」という言葉なんです。なんであなたがそんなこと決められるんだよって。
神様なら分かりますよ。全知全能なる我が主なる神様なら。神様がおっしゃるなら、そりゃその通りです。Yes, my Lord. って納得します。苦しんでるのが自分じゃないなら

聖書に出てくるヨブさんもそうでしたけど、自分が苦しんでる時には、たとえ神様にであれ「まだ耐えられる」とか言われたくないんですよね。ましてや人間に言われたくなんかないです。

本当に苦しい時って、ありますよね。人生の喜びがまるで蠟燭の火のように儚くかき消されちゃう苦しみって実際にありますよね。

わたしの生まれた日は消えうせよ。 男の子をみごもったことを告げた夜も。 その日は闇となれ。 神が上から顧みることなく 光もこれを輝かすな。

ヨブ記 3:3-4 新共同訳

なんか、その、医療者の人っていうか、社会の大多数の人は、そこの所が実感できてないんじゃないかって思うんです。乗り越えられない苦痛なんかないさ、生きてりゃそれでいい、みたいな。
そこを鎮静の基準にされちゃったら、幡野さんがおっしゃる通り我慢比べになっちゃう気がするんです。私それ嫌です。それに我慢には限界あります。人間なので。

その苦痛が耐えられる苦痛かどうかなんて、神様ぐらいにしか分かんないじゃないですか。人間に分かる訳ないじゃないですか。苦痛の程度って主観でしか量れないじゃないですか。

自分がすごく辛い、死にたい、ってなってる時にまだいけるよって言われると、余計死にたくなるんです。その無知と無関心が苦痛の新しい原因になっちゃって。

わたしはなお待たなければならないのか。 そのためにどんな力があるというのか。 なお忍耐しなければならないのか。 そうすればどんな終りが待っているのか。 わたしに岩のような力があるというのか。 このからだが青銅のようだというのか。 いや、わたしにはもはや助けとなるものはない。 力も奪い去られてしまった。

ヨブ記 6:11-13 新共同訳



ちょっと話を追加しますけど、私、虐待サバイバーなんですよ。私の受けた虐待は心理的虐待がメインで、身体的虐待はあんまりなかったんですよね。
で、ちょっと前まで、私が子供だった頃って、日本では心理的虐待ってカテゴリーが社会的に認められてなくて。

だから私が受けていた虐待を、誰も虐待だって言ってくれなくて。自分で勉強して知りましたよ。誰も私が感じている苦しみが耐え難い苦痛、虐待だって言ってくれなかった認めてくれなかった

自分が苦しいのを認めてもらえないの、すごく悲しいし、それこそ言葉にならないです。苦痛を認めてもらえないってこと自体が、すっごい濃度の苦痛です。

率直な話のどこが困難なのか。 あなたたちの議論は何のための議論なのか。 言葉数が議論になると思うのか。 絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか。

ヨブ記 6:25-26 新共同訳

苦しいんです。でもその苦しさは、神様ぐらいにしか分かりようがないものなんです。人間には分からない。分かりようがない

大人に首絞められて、もがいて、ふりほどけなくて、締めてるの母で、怖くて、どうしようもなくて、なんでってなって。
あの苦しみが私以外に分かる訳ないじゃないですか。人間が他人の苦しみを量るなんて、無茶ですよ。

生きていたくない苦しみは確かに現実として在って、当事者がどれほど苦しいかは本人以外の誰にも分からない。分かりようがない。だって本人以外は、誰もがその人ではないから。
他者ってそういう断絶した存在だよね(残念ながら)っていうのを、鎮静の前提にしてほしいなって思います。



うーん、大幅に脱線してしまいました。鎮静について話を戻しますね。

ファンタジー小説「指輪物語」のとあるエピソードが鎮静にまつわる話に思えたので、その話をします。

この本の中にはアラゴルンっていう人間のキャラクターが出てくるんです。色々あって最終的に王位に就く人なんですけども。この人の一族は神様(God)から特別な奇跡を授けられていて、なんと、死のうと思った時に自然死できるんです。すごいですよね。

アラゴルンも最後にはその力を使って亡くなるんです。彼には大恋愛の末に結ばれた連れ合いの方がいるんですけど、この人はアラゴルンにまだ死んでほしくないって嘆願したんです。家族と死にゆく当事者の間にはやっぱり意見の違いがあるんだなあって思います。

そんな連れ合いにアラゴルンはこう言ったんです。

「愛する者よ、そなた自身に問うてみるがいい、そなたはわたしが老衰し、意気地もなく老いほけて高い玉座から転がり落ちるまで本当にわたしを待たせたいと思っているのかどうか。」

「指輪物語」(瀬田貞二・ 田中 明子 訳), 追補編_アラゴルンとアルウェンの物語(その一部) より

これって尊厳の話ですよね。多分。指輪物語を最初に読んだのは小学生の時でしたけど、やっぱり「そんなアラゴルン見たくない」って思いました。格好いいアラゴルンが好きでしたから。

そして、アラゴルンもそんな自分嫌だったんですよね。そうなるのは耐え難い苦痛だったんですよね。彼にとって。だから彼は奇跡を行使することを決めたんだと思うんです。彼の尊厳と命に対して、彼以外が支配を及ぼすのは、私、何かとても嫌なので、それで良かったと今は思ってます。

彼の身体はまだまだ生きられたでしょうけど、それはアラゴルンの尊厳と引き換えの長生きだったでしょうから。そんな、アラゴルンも私も不幸になる状況は嫌です。だから、アラゴルンが鎮静みたいな奇跡を使ってくれて良かった。



アラゴルンの物語を通じても、やっぱり、他人の苦痛を量るなんて無理だって思います。やっぱりどこまで行っても苦痛は主観です。

そういう風に「これは耐え難い苦痛なんだな、本人がそう言ってるんだから」っていう共通認識ができればいいなって思います。苦痛が認められないのは、苦痛を増やすので。

ヨブさん何度も言うんです。聞いてくれって。

どうか黙ってくれ 黙ることがあなたたちの知恵を示す。 わたしの議論を聞き この唇の訴えに耳を傾けてくれ。

ヨブ記 13:5-6 新共同訳
黙ってくれ、わたしに話させてくれ。 どんなことがふりかかって来てもよい。

ヨブ記 13:13 新共同訳
よく聞いてくれ、わたしの言葉を。 わたしの言い分に耳を傾けてくれ。

ヨブ記 13:17 新共同訳

自分の言葉を聞いてもらえないのは、苦しいです。苦しいけど、苦しい時はだいたいそんなものだから、ヨブさんは何回も言うのでしょうね。

苦しんでいる当事者の言葉を信じる耐えられないほど苦しいんだと認めるそれは当事者以外には分からない自分にも分からないけどそうなんだと認める。そこが鎮静における重要なところなんじゃないかって思います。



取り止めがないまま最後まで来てしまいました。でも、思っていることを書けたと思います。なので、敢えてこのままにして筆を置きます。

話を最後まで聞いてくださって、ありがとうございます。




表紙写真はUnsplashというサイトにあるDebby Hudsonさんの写真をお借りしました。美しい写真をありがとうございます。