幸福の黄色いハンカチ
雨音を聞くと思い出す。
雨に祟られることが多かったあの6月の旅を。
でも何故か荒浜や南相馬は晴れていた。
仙台から南相馬まで走った区間。多分何に作用するかはわからないけど、一生忘れることのできない道程だったよ。仙台は復興によって潤ってる感じもあった。南下してきた道中を思い返してみると、福島原発から仙台よりも離れている石巻とかの方が取り残されている感じだった。それでも仙台近辺の荒浜で、人間がいないと地面は草が支配するということを直に感じることが出来た。
なにより、圧倒的な数の霊魂を感じたよ。
うまく言葉で言えない時間。
東北の風習なのか、荒涼とした彼方此方に真黒に塗られた墓石が無数に置いてある。そこから遠くを見ると、生きてる人間たちが蟻の群れのようにたかって、土地を掘り起こし整地して再開発していく。亡くなった方々は特別な存在でも通りすがりの犠牲者でもなく、生きてるもの達は生きている限り時間に支配されている存在でしかないというか。
実は青森あたりで思ったんだけど、人間はよい意味でも悪い意味でも生き物なんだね。地球にとっては雑草と同じで、ただ次の時を掴もうとして生きようとしてるというか、綺麗事ではない真理のようなもの?、そんなものを感じました。
その日ばかりはKも超低速走行に低い音をボコボコたてて付き合ってくれました。酸素を吸い込まないと走れない訳で、彼も同じように生き物のようなもの。
浪江町は政府も認めざるを得ないオフリミットだけど、南相馬だって限界ギリギリだし、仙台だって100キロしか離れていない。
僕が一番感じたのは、情弱にされたって、政府に騙されていようが、人間は生きるためには境界を越えていってしまうってことだね。
南相馬を目指して、数珠繋ぎのトラックに前後を挟まれながら国道6号を南下していた。高架から眼下を見下ろすと、農道や廃道、あらゆる道に様々な車両がうじゃうじゃと右往左往行き交っているのが見えた。
善も悪もなく、エゴが共存しあって生きることに繋げるかんじ?
えげつない光景だったけど、それが真理のような気がした。
片やあるところに止まって、愛する人を待ち、幸福の「黄色いハンカチ」を掲げる心もあったり、どっちにしろ自分にも繋がるハナシだと。
やっぱり、福島に南下しといて良かったです。
北海道を支配する自然。
なかなか人に会えない。
だから北海道の人は人と会うことを大切にする。
でも、本州を南下すればするほど、人間同士が生きがって、ぶつかりあって、共存していく。
僕の感じ方はそうだった。
自分の中に潜在している何かをたくさん感じたような気もする。
荒浜で見た「幸福 の黄色いハンカチ」
それが僕のゴールだったんだ。
何というか僕を「当事者」として迎えてくれたんだと思った。
僕は映画を目指している。
だからこそ、あの光景が、6月のあの旅のフィナーレだったんだよ。