〈おもひでは夢のようにきらめいて〉務川慧悟氏のラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調
ついに、ついにこの日がやってきた。
務川慧悟氏が演奏するラヴェルの両手コンチェルト! 務川氏はもちろんファン待望の初演奏。
この演奏会な発表があったのが2023年10月のファンのざわめき、務川さんの喜びの声をまず書いとこうか。
ピアニスト務川慧悟が数年にわたりラヴェル作品に積極的に取り組んできたことは周知のこと。2017年シャネル・ピグマリオン・デイズのアーティストとして「ラヴェルピアノ作品全曲演奏」として6回のリサイタルを開催。2022年に日本、2024年に欧州でラヴェルのピアノ曲全曲を収録したCDを発売、それに伴い各地でオールラヴェルコンサートが開催され評判を呼んだのは記憶に新しい。「ラヴェル弾き」のピアニストとして名を高める務川さんではあるが、その一方でラヴェルが残した2つのピアノ協奏曲のうちの「両手」と呼ばれる「ピアノ協奏曲ト長調」を演奏する機会にはなかなか恵まれなかった。ちなみにラヴェルのもう一つのピアノ協奏曲である「左手のためのピアノ協奏曲」は2018年に既に演奏を果たしている。
そんな務川さんもファンも待望の「ピアノ協奏曲ト長調」、まさに待ちに待ったコンサートだ。私自身もこの日が来るのが楽しみだったし、いやあ本当に来ちゃったの? と早くも終わってからの寂寥感を予測してなんとなく気落ちしちゃうほどに大切に感じていた。
ようやく、である。
えっと最初に一言お断りしておくが、もう完全にピアノのことしか書いていない、しかも憶測&妄想満天の記事です。(まあ、いつもそうではありますが)。もちろん川瀬マエストロも日本センチュリー交響楽団も素晴らしかったのだが、ごめんなさい。私は他に耳目を割ける余裕がゼロでした。ということでよろしくお願いします。
日本センチュリー交響楽団のチューニングが終わった。会場は静寂に包まれピアニストとマエストロの登場を期待の中で待つ。演奏前はいつも緊張すると仰っている務川さんだが、今日はさらに切望していた憧れの曲なのだから心中はいかばかりかと、見ているこちらの心臓ドキドキも既にヒートアップ、爆上がり状態だ。
扉が開き、務川さんと川瀬マエストロが現れた。務川さんはジャケット、マエストロはシャツ姿、お2人とも全身黒できめている。
笑顔だ、と最初に思った。
お2人とも笑顔の表情で颯爽と舞台中央まで歩きにこやかに会場に挨拶、コンサートミストレスの松浦奈々さんとも(マエストロだけが?)軽く握手した後、マエストロは式台に、我らが務川さんはスタインウェイの前に座った。
心中では果てしない緊張を抱えているのだろうが、そういえば彼はこう言っていた。
〈自信と並々ならぬ意欲〉。
緊張だけではない。楽しみなのだ。この時間は務川さんにとっても夢の時間だ。それを楽しむための準備は十分にこなしてきている。
〈鞭〉の音と同時にピアノがアルペジオを奏でる。そしてすぐにこの曲一番の見どころ聴きどころといっていい、グリッサンドの往復からのロンググリッサンド! おおおおおおお! か、かっこいい。正視できないほどに(笑)。
長いグリッサンドは夢の世界へと誘うアプローチだ。扉が開いた瞬間、カラフルで雑多なワンダーランドが繰り広げられる。
私的にはそこは1930年代ニューヨークの街角だ。街には商店が立ち並び、ひっきりなしに人や車が往来する。近代的なビルが建設されどんどん変わっていく街並み。新しいもの、珍しいもの、面白いもの。人や技術、流行が次々にやってきて去っていく。
しかし一本裏通りに入れば、そこは生活の場。きらびやかな表の世界に疲れた人が裏口ドアからそっと現れ、ゴミ箱の後ろで煙草を吸う。
ピアノがメロウな第2主題を奏でる。ピアノの音だけがビルの隙間に切り取られた夜に煙のようにたなびいていく。務川さんの少し肩を入れてのウィット、歌い出しそうな表情、ゆっくり上がるひじが、そんなラヴェルの世界を体現する。
聴いていると、何度も聞き覚えのあるラヴェルがよぎるのに気づく。例えば「水の戯れ」のきらめきであったり、「道化師の朝の歌」の爆発であったり、「クープランの墓/プレリュード」の流動的な常動であったり、あるいは「高雅で感傷的なワルツ/エピローグ」の夜の静寂であったり、「スカルボ」のユーモアだったり。すべて務川さんが何度も私達に届けてくれた曲達が、「務川ラヴェル」のデジャヴとして断片的に蘇ってくるのだ。
ああ、私達ファンも務川さんの演奏と共にラヴェルを積み重ねてきましたね。
これぞ務川ラヴェルの集大成の時!
時間がかかったかもしれないが、務川さんが憧れの曲にたどり着いた瞬間がこの時期だったのは、まるで計ったかのような奇跡的タイミングのように思えた……などと早くも感傷的になるうちに再び賑わいが戻ってきて、大切な第1楽章がもう終わってしまった。OH~!
務川さんがピアノに向かい、静かに奏で始める第2楽章。会場にピアノの音色だけが広がっていく。装飾があるわけでも、大きく起伏があるわけでもない、静かで何も隠すことのないシンプルでまっすぐなメロディ。その飾り気のない真摯な音は水脈のようにあたりを満たし、やがて一つ二つと細やかな楽器の花が開いていく。
弦がいつの間にか寄り添い、フルートがそっと歌い出す。その頃には、務川さんは右手のメロディをとうに明け渡し、左手で伴奏を続けている。
そういえば今回の椅子は珍しくもトムソン椅子だ。務川さんは背もたれにもたれ、物憂げに、左手で演奏をする。まるで今日はじっくり腰を落ち着けて話を聞くよ? という雰囲気。その様子を見て、オーボエやクラリネットなどが次々と勇気を出して歌う。
務川さんの演奏を見ていてふと〈左手の献身〉という言葉が浮かんだ。
異論は多々あろうが、思うにこの楽章でのメインはピアニストの左手だ。左手がずっと伴奏を行い、そこにオーケストラの各楽器や時にはピアニストの右手が現れ、メロディを奏で去っていく。その間左手は、まるで「ボレロ」におけるスネアドラムのように、一定の形で延々と伴奏を続け支える。
淡々とした静謐さ。聴くうちに、悲しみとも慈しみとも分からない感情が沸き上がり、ただ「美しい」とため息を吐いてしまう。
ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」は「左手のためのピアノ協奏曲」と同時期、1929年から1931年頃に書かれたそうだ。「左手」は第1次世界大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインの依頼によって書かれた。
ラヴェル自身も第1次世界大戦を経験し、そこで多くの親しい人の死や自身の命の危機も経験し、さらに戦時中には最愛の母親を失っている。そんな経験も影響したのではないだろうか。
この曲が途轍もなく美しいのは、人生のやり切れない思いが込められているからだと思う。どうにもならない世界への厭世と諦観を声高に叫ぶわけではない。おずおずと前に出てきた楽器が少し歌い、すぐに後ろに下がる。そして次の楽器が前に出て歌う。みんな抱えた苦しみを控えめに訴え、それを左手が優しく静かにそのまま受け止める。やがて世界は静かな安らぎと優しさに満ちてきて、それでも世の中が続いていくという明日への希望へと繋がっていく。
「左手」が左手を癒す曲だとしたら、「両手」は左手が他者を癒す曲だ。「左手」が右手を失ったピアニストの生きる希望であったように、「ト長調」2楽章の左手が他の人達の希望を紡いでいく。2つの協奏曲の繋がりを深く感じてしまうのはうがった見方だろうか。
こんな思いが浮かんだのは、務川さんの演奏姿を間近に見たからだ。
左手で伴奏をする時、務川さんは背中を背もたれに預け物憂げに弾いていた。まるで全てをメロディに委ね、どんな歌声が返ってきてもありのままに受け止めようと決めたかのように。そして本当にどの楽器も、どのメロディも受け入れた。以前にも彼は「物憂げに弾く」ための練習の一つとして、背もたれにもたれての演奏を挙げていたことがあるが、こんなにはっきりと分かるポジションで演奏するのは珍しいかもしれない。トムソン椅子は彼の演奏プランの中の重要な一つだったのだろう。最近でも例えば靴を履かずに靴下だけで演奏したこともあったが(2025年11月30日東京文化会館)、理想の感覚を保つために演奏環境を整える方なのだと思う。自己実現を超えた次のフェーズ、他者への慈愛に満ちた重要な〈伴奏〉だった。
第3楽章は同音連打やトリル、ズラシや複雑な装飾や要素がふんだんに取り入れられ、まさに街に繰り出したパレードのような雰囲気だ。第2楽章では完全に受け身だったピアノが今度は前に出てオーケストラと丁々発止のやり取りを交わす。務川さんは細かな装飾が散りばめられたパッセージを高い技術で軽快に見せる。あたかもジャズのアドリブを繰り出し合うかのようなオーケストラとの協同はますますドライブ感を増していく。高まるワクワクと情報過多なメロディや奏法に目移りするうちに、カラフルで雑多なパーティは一気に終焉した。
その瞬間沸き起こった拍手の中、務川さんは立ち上がり、川瀬マエストロと熱く抱擁を交わした。オケのメンバーに挨拶の後、客席を振り返る。満足そうな笑顔が眩しい。
今までにも拍手の中、笑顔で挨拶する務川さんを何度か見てきたが、今日は一際輝いてみえる。なんて特別な日だろうか。焦がれてきたラヴェルのピアノ協奏曲を見事に弾ききり会場を感動で満たしたのだ。彼の演奏にはいつも「ああ、凄いものを聴いた」という気持ちで圧倒されるが、文字通りにこの日は格別だった。
止まない拍手の中、何度目かの出入りがあった後のアンコール。フレーズが始まった瞬間、衝撃を受けた。
ラヴェル:マ・メール・ロワから「妖精の園」。
務川さんも大切にしてきた曲であり、ピアノ協奏曲ト長調初演奏という大切な今回の演奏会に、務川ラヴェルの代表曲の一つであるこの曲はなんとふさわしいことか。この曲はファンの間でも人気が高く、今日を心待ちにしていたファンとも喜びを共有しようとしてくれているのかなと、勝手だけどさ、勝手だけど強く感じてしまい、はあーもう涙。
まさに夢の世界と言わずして何?
務川さんのようやくの夢が叶い、務川さんのピアノ協奏曲ト長調が聴きたいというファンの夢も叶った。
ラストはこの日を寿ぐような連続グリッサンド。
私達は協奏曲ト長調のグリッサンドで夢の世界へと誘われ、アンコールのグリッサンドで夢の世界のままに大団円を告げられた。
今回の演奏会テーマは「名残」だそうである。
〈何かが過ぎ去った後も、その影響がまだそこにある〉とのこと。まさにその通りですね。数日たった今も、あの夢時間が忘れられない。
いや、忘れなくてもいいし、忘れたくない。
務川慧悟氏の幸せそうな笑顔と共に「名残」として、ずっと心に留まっていくのだろう。
☆サイン会での推し☆
サイン人数制限でいただけず、超下手ですが私の写真を少し。
☆推し散歩☆
京都で朝からラーメン食べて紅葉浴! 良きおもひで。