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『ファントム・スレッド』

D・D=ルイスが 自分の楽しみのためだけに 髭を剃る場面から始まる『ファントム・スレッド』(Phantom Thread/2017年/アメリカ/130分)は まるで一昔まえの映画のように大袈裟だ
そして この映画の唯一の救いは ヒロインを演じた下手な女優(ヴィッキー・クリープス)だが このバランスを欠いたキャスティングゆえに本作は 誰一人足を踏み入れたことのない森の奥にひっそりと咲いている見事な花が 愛だけのために実を結びたいと思うような願望に充ちて行く
この映画のヒロインと主人公レイノルズがめぐりあったとき ふたりは 相手のことをじっと見つめ 自分のことを美しいと感じるまなざしに気づく根比べをする
そして 映画もまた名優ではなく 演技力においては劣る女優の美の勝利を追い求めて行く

見事なショットがある
毒キノコを煎じて飲まされたD・D=ルイス=レイノルズが 最も高貴な女性のためにつくったドレスを倒してしまい寝室に運ばれる
一方別室ではそれを繕い直して行く女性たちを指示する姉(レスリー・マンビルが好演)とヒロインの動きを360度捉え 別室に移動した姉の声が間近で聞こえ そこにヒロインが姉の声に導かれるようにして 私になにができるかと姉に問い そしてウェディング・ドレスに針を刺すまでを捉えたワン・ショットだ
アルトマンの教えに導かれた音響の遠近の混在からポール・トーマス・アンダーソン(PTA)は 無名の まるで農民のような野卑さをもったヒロインの女性の姿にキャメラを引寄せて行く
奥には実際の御針子らしい老女が立ち 手前に女優を配したショットは 御針子の半身の動作と 女優の手元から顔への動きをパンニングしながら 「呪いがかからないように」と この女優に呪文をかけて行くようにもみえる
もしこのショットが『万引き家族』の一連の室内のようにカットを割り視点を分割するのではもの足りず このように視線を誘導するのでなければ このヒロインへの生々しい執着は写らなかったように思う
自ら仕掛けた毒で倒れたレイノルズを寝室で看病したヒロインが 同じ表情で レイノルズが端正込めたドレスに自ら針を刺すまでを 古典的なまでのキャメラ・ワークを駆使して虜り込む

冬至や夏至を中心に生活し 薬草などにも通じたケルト人は 後に魔女のイメージに変色された
この映画のレイノルズを見ていたら 土方巽の「命がけで突っ立っている死体」を思わずにはいられない
レイノルズの母のファントムが出てくるまでドレスを縫ったようには見えないのがこの映画の最大の弱点だが(D・D=ルイスの演技も幾つかの場面で紋切り型に見える) 先祖から脈々と続く命に支えられた力がレイノルズに死装を施すとしたら 母親のお腹の中で生きている無限の力にあのヒロインが禽り憑かないわけがない
レイノルズがドレスという形をつくるのは 地上の事物が何物もこの形で存在しないことを無意識に知っているからだろう
ドレスの襞もまた常識的な表面だとしたら 襞に織り込まれた呪文を取り出す女は 一瞬ごとに新しい茸の体液の流れのなかにある

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