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『甘き人生』『アランフエスの麗しき日々』他
手術はしたものの入院時の3倍は自宅療養が理想と昨年末に医師に言われても無理のあるところ 体調が少しずつあがってきたので『花筐 HANAGATAMI』(2017年/日本/169分)と『甘き人生』(Fai bei sogni/2016年/イタリア/130分) そして少し間を置いて『アランフエスの麗しき日々』(Les beaux jours d'Aranjuez/2016年/フランス・ドイツ・ポルトガル/97分)『15時17分、パリ行き』(The 15:17 to Paris/2018年/アメリカ/94分)を劇場で見た 共に原作もので演出手腕の映画だった
とりわけマルコ・ベロッキオの演出は あらゆるショット構成に隙がなく 傑作『母の微笑』(L'ora di religione/2002年/イタリア/102分)につながる「聖母批判」というか カトリックの国では必ずしもない日本で見ると 単なるマザコン映画に見えてしまうかもしれないけれども どことなくハムレット的な主人公マッシモは 少年期に過った仮象(母の死因)が与えられたとき引き起こされる逆説をよく体現していた
大人になり新聞記者となった彼の鬱な狂乱は 少年時に仮に与えられた母(愛)の喪失に触発されるままに自分自身を感じてしまう錯乱から生じてしまうのだろうか
偽の表象(母の死因)が 母の幽霊(≒ベルファゴール)と化し くりかえし回帰してくる
ベロッキオはこの関係性を極めて客観的に描いていて そこが先ず素晴らしいと感じる
最初の方で 父親が母の訃報記事を本に挟んで隠してしまうカットがでてきた
このカット(父親の隠蔽)を少年期の彼は見ていない
われわれ観客は記事を隠す動作は見ていても 大抵は見落とす少し距離が離れたカットだったろうか
そしてこの10秒にも満たないカットの訃報記事に 当時関わった新聞記者が 後半短く出てきて 記者としては駆け出しだった頃のこの事件を大人になった彼に少し語るのだが この事件の現場に居た少年の彼には 新聞なるメディアは存在しないにも等しく その訃報記事の立ち話も何のことかよくわからないまま場面は転換
更に 自分の体調不良と父親から教えられた母の偽の死因(心筋梗塞)を重ねて女医に話すと それは「お話ね」と笑われてしまう
そして後半 叔母が当時の新聞記事を本棚から取りだし 新聞記者となった主人公に見せる
このくだりは 新聞記事という 明らかに外界に存在する客観的な表象と 子供に大人が嘘をつくという偽の表象(主観と呼ぼうか)とを巧みに列べた見事な場面展開だと思う
しかも 母と2人で見たテレビ映画「ベルファゴール」(若きジュリエッタ・グレコではないか)のカットで 母が少年だった彼の目を塞ぐのは まさにベルファゴールが正体を明かし飛び降りる瞬間だったことが 編集で明かされる後半 トリスタン・ツァラの「ぼくを見つめないで」というダダ宣言を重ねて私は主人公を見ていた
マイナーで 儚く まともに扱われず すぐに捨てられてしまうようなもの どこに目があるのか 世界にあるのかわからないものの強度…それは小さな新聞記事かもしれない…ときに創価学会にまで入信する主人公マッシモが 「母への憎しみ」という読者投稿に応えて書く記事は マイナーな世界に佇んできたベロッキオならではの強度に充ちた場面になっていた
そして本作は 固有の時間をもつ様々な出来事の交差に 時間推移のない「母との時間」がふと立ち現れる
ベロッキオはまるで忘れるために探さなければならないと言っているかのように…91年の内戦下のサラエボまで出掛け…と思いきや 母に抱かれながら入ったかくれんぼの段ボール箱は 母の胎内のようにマッシモを食べて映画は終わる
レオナルド・ダヴィンチの絵画『聖アンナと聖母子』が暗示する抑圧された性と胎児幻想にも似て それは 母の胎内にあったときの無意識世界への願望が あたかも私生児として母より見棄てられたイエスの喩だろうか
マッシモが抱かれるのは少なくともフェリーニの母みたく色温度があがるやさしい母体とは違って 少し冷たい檻のようでもあり
母の飛び降り自殺自体は映画では描かれない
それ自体は不幸なことであり カトリックの国では「原罪」のひとつとして罪深いことだが 母が飛び降りるときの自己放下を 中西夏之の絵の弧線に重ねてみると この自殺はある意味異なる世界の出現ともとれる
聖母とは異なるものをマッシモの傍に引き寄せることにもなったこの母の落下は 聖なる母子を描くという考えで作られた映画というよりは 聖母という存在を成り立たせるものを問いかける放物線を描くかのようだ
アカデミー賞やカンヌやキネマ旬報ベストテンといった「世俗の力」を抑制するには ベロッキオが忍ばせた新聞記事のような客観的相関物が必要なのだろうか
![](https://assets.st-note.com/img/1715734489740-A22L9WAt2T.jpg)
一方 アカデミー・アワードは フランシス・マクドーマンドが主演女優賞を獲り こんなスピーチを行った
彼女はイェール大学で美術学の修士号をとったシェーカー教徒でもあり 大変静かな演技コントロールのできる人だ
私が彼女の舞台を見て その打ち上げの席で立ち話をしたときも あの無表情は変わらなかった
厳格で抑制の効いた芝居『初期シェーカー』は レコード盤をそのまま上演するというもので ウースター・グループのアングラ劇だった
二度目のオスカーを獲得した『スリー・ビルボード』(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri/2017年/イギリス/116分)の演技にも期待するが スピーチはハリウッドに於ける女性の扱いに対するもので
そして オスカー像を下に置き
「ではここでしっかりとお伝えさせていただきます。すべての部門においてノミネートされた女性の方々、一緒に立ち上がっていただけますか? メリル(・ストリープ) あなたが立てば皆立つわ(笑) 映画監督、プロデューサー、脚本家、撮影監督、作曲家、衣装デザイナー、全員よ! みなさん、見渡してみてください。今立ち上がっている全員が語るべき物語やプロジェクトを持っていて、資金を必要としています。 その企画について聞くために、私たちをオフィスに招いてください。今夜のパーティーでじゃなくてね。もしくはあなたたちが来てもいいわ。今夜、最後にこの2つの言葉を残します “Inclusion Rider”」
と ハリウッドにおける多様性への寛容を発展させるための解決策として使われている“equity rider”をもじり 各方面で活躍する女性たちの力をアピールした
とある 最後に彼女が使った言葉“Inclusion Rider”を全世界の多くの人がググったらしくそれは…
俳優が作品のキャストとスタッフの人種・性別などの構成を少なくとも50パーセントは多様なものにするよう 要求できることを指します
とあった…メディア研究者のステイシー・スミス博士の言葉で 間接的にトランプ政権に抗しているのだろうが
私も『微塵光』という自品で男性と女性を50パーセントづつ配するように心掛けたばかりだったからか マクドーマンドのこのメッセージに反応した
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その翌日に見た 夏の日々 夏の光を通してみた対話劇『アランフエスの麗しき日々』は 近年復調してきたヴィム・ヴェンダースの実験のひとつの極として理解されねばならない
男と女はカードルの中にある絵のようで 彼らには前があって 後ろがある 後ろには話者が居て 前と後ろを共有している
前方の一本の樹木と紫色の花と緑の雑草と後方の館(パリ郊外のサラ・ベルナールの邸宅で撮影されている)の間にあって 女と男は 前と後の境界そのものでもあるだろうか
アランフエスというより夏の広大さからのここ 盛夏の無限点からのここ 現実の寸法としての彼らの平穏な対話
彼らの眼前と背後 それは時間のすれ違い
りんご・円盤状の机
カードルの真中 即ち静けさ つまり夏の核心は 借景ではなく
「幻想にとりまかれていたからわたしはあなたの問いを というよりあなたの声を 信頼する気になった このゲームを一緒にプレイし あなたに答えることができた」という女
「白い皮に さらに白い 純粋に白い果肉 けれどその中 真ん中には 種がある 僕の知る限り 他のどんな果物にもないような黒い色の種だ こんな最初に熟すリンゴが 僕にとっても かつて 夏そのものを意味していた 最初の夏休み 宿題もなし 自由そのものの日々」という男
早生のリンゴ一個だけを手にした麗しき日々
それはもしかして絶滅してしまった夏そのものなのだろうか?
ペーター・ハントケによるこの対話劇は イプセンの遺作に似て 最晩年の解決とはほど遠い
更なる不安を掻き立てる戯曲に思える ラストにみせる話者の哀しみや苦しみには完成や完結の可能性などこれっぽっちもなく いつまでも眼に見える夏のイメージが去来するのみだ
それは「その愛が残した証」(ヴィム・ヴェンダース)だろうか?
彼らはおそらく元恋人同士で 男は地獄落ちしていて仕事に逐われ合間にここに来ている
彼が夏のリンゴを喪ったとしたら社会的なせめぎあいの動物だから
女のセリフにはこんなのがあった
「夏の盛り盛夏 こんなに深い静けさなのに 深い静けさ 私にはこの言葉の方がふさわしい気がする 私たちが 私があなたと話し始める前 静けさの到来する感じ 静けさが降りてくる感じがした あるいは付け加え 補うような静かさ 静かさがこの地域へ降りてくる この辺りだけではなくて むしろ地上の全体に 地上は 静けさの降臨とともに ゆっくりと変身する むかしの人が考えていたような一枚の円盤に(ではなく) クレーターに 窪地に 深い静けさのおかげでこの土地が深さを獲得した」
ドイツ語から訳された戯曲は「円盤に」となっていたが フランス語で撮られた映画の字幕は「円盤にではなく」となっていたのはなぜだろう?
ジュークボックスから流れる円盤(レコード)よりも セザンヌの窪み(影)や ニック・ケイブが弾くピアノの蓋上の糞のように 言葉もクレーター状に起伏しているからだろうか…
サイレント映画の監督たちを模して(?) 画家がモチーフを展開させていくのと同じように その映画の展開と同時に女の衣装を塗り替える場面があった(話者がノートに色鉛筆で青色に塗りつぶすと次のカットで 女の衣装が青色に変化する)
ハントケとヴェンダースが試みているのは まず第一に 見ているものを書き留めることであり そうすることによって可視なるもののなかにひとつの定位を確保することだが その定位は 可視世界を発明してゆく可能性でしかなく 決してそれを支配したり 整えたり 或いは適当に配置する可能性を言うのではない
つまり 話者は 見ているものを発明してゆく必要があるということなのだ
その都度 彼が観照する対象の何かが溶解してゆく
そこにひとつの誘惑の関係が生まれ 彼が創造した目前の世界のなかで話者は自分が変化しうることを知り 自分はいかようにも成形されうることを発見する
この実験的でありながら いつになく簡潔なイメージ展開はラスト ヴェンダース好みの女優の肩だしに結ばれる
![](https://assets.st-note.com/img/1715734586861-5fMFBVKJ5v.jpg)
ヴェンダース同様 80s/90s高音質シネソニック・マスターであり 音作りの妙(特にガン・ファイト)は半端じゃないウォルター・ヒル『レディ・ガイ』(The Assignment/2016年/アメリカ/96分)の技術的な選択も的を得て アクションを見せる/展開させるより 感じさせるために鈍重な画面と音響を使って 目覚めたら女になっていた時の正しいリアクションを描いていた
ミシェル・ロドリゲスが演じる“異形の悲哀” それは女医のように性転換すれば本質も変わると信じる人間には理解しがたいものだろう
異形の者は 存在しているだけで唯一の存在となり 「信じれるのはコルト45口径と犬」だけだ
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喪われたファロスの代理を描きつつ アメリカ社会の銃器規制問題をアイロニカルに説く道徳の人ヒルの新作に近いのは 同じように90分台の『15時17分、パリ行き』だ
ヒルの映画はコミック映像効果など蛇足が多すぎてやや冗長だが それとは違った間延びが最年長監督クリント・イーストウッドの最短映画の特徴だろう
走行列車内での実際の事件を再現ドキュメンタリーのようにその半ばを表象し 本人たちが本人を演じることで 自らの行為に対して充足しつつ自らを現前せしめる再現前化の演出が求められるこの珍作は おそらく 実際の事件よりも純粋で単純な長さにおいてフィクション映画である テロ事件を扱うというより人命救助に焦点を絞ることで 事件の比重を変えて テロの有用性を喪わせるという点では『父親たちの星条旗』(Flags of Our Fathers/2006年/アメリカ/132分)に連なるモチーフだが 映画は『ジャージー・ボーイズ』(Jersey Boys/2014年/アメリカ/134分)に似た精彩を欠く仕上がりとなっている
ハリウッド映画の撮影がスターを使った「公認の」テロ防止行為の如く セキュリティがロケ地を囲い行うものだとしたら 本作は無名の人たちを使い 観光地で人混みに紛れるように車止めもしないまま撮影されたようにも一見するが 却って テロリストの存在は抹消され そのアメリカ優位の視点には辟易した
映画に出てくる自撮り棒ではないが 観光地での幾つかの場面は 助監督が撮ったのではないかと見紛うばかりのいい加減さだ
そんな通俗的なリアリズムから走行列車内へと至り彼らが政府に表彰されるまでのくだりには シナリオなるものはどのように介在したのか
彼ら3人はほとんどミュージシャンのようにいくつかのフレーズを記載したノートだけを所持し 自らを演じたのだろうか
事件が起こった走行列車内に偶然乗り合わせたことと瞬間的な判断とは「同じもの」だとしてみせるイーストウッドは プラットホームから電車への 電車からプラットホームへの乗り移りを丁寧に撮って 衝突することで顕現する瞬間に賭ける演出は流石なのだが テロリストを演じた俳優への配慮(シナリオと演出)があまりにも杜撰ではないか
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また 好き嫌いとは別に過剰な映画とは『花筐』だろう
こちらはそのロリコン・イメージとは裏腹に 過去の回復可能性について 自分に残されているであろう歳月の短さと格闘する映画だ
ある種の居心地の悪さの中に観客を置き去りにする驚きの尽きないそのタッチは 初期大林映画に近い完全なる不毛性をあらわに 実直な人間だと 許しがたいかもしれないイメージやサウンドの数々が 大林宣彦の『花筐』全編を包みこむ
とりわけ驚いたのは 皆で記念写真を撮る場面で 山中貞雄というより小津的なこの場面の編集は 発明されたとすら思った
晩年の黒澤明が陥った色彩映画の問題を デジタルで華麗に才色し 回避する大林の才気とコーディネート力は ほぼ同じ上映時間の『ブレードランナー 2049』(Blade Runner 2049/2017年/アメリカ/163分)よりも融通無碍を感じさせることに成功している
中西夏之にとっての『黒釉金彩瑞花文碗』の水平面の発見が 琳派の傑作と称される『紅白梅図屏風』の垂線に対してのそれだったように…ヴェンダースの麗しき日々を綴る話者の机には ベロッキオの新聞記事と同じく切り抜かれた客観的な相関物としての「りんご」が円盤状の台の上に置かれていて 劇の最後にそれは著名な画家の水彩画の隆起した影へと吸収されるかのようだ
主体を客体化するそうした映像の単位は『花筐』や『レディ・ガイ』や『15時17分、パリ行き』には見当たらないが 遠く 近くの 目前から あるいは遠くの背後から 老年期を迎えた彼らの映像に 驚きの始まりがやって来る
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イーサン・ホークが出演しているから気になり チラシに海岸線が映っているという理由だけで劇場まで赴いた映画は 『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』(Maudie/2016年/カナダ・アイルランド/116分)だ
カナダの画家モード・ルイスを描いた本作は 愛の起伏を丁寧に追って 『キャロル』(Carol/2015年/アメリカ/118分)や『パターソン』(Paterson/2016年/アメリカ/118分)の審美性を超えた心に滲みる映画として忘れ難い
道を歩くときモードはどこまで歩いて引き返すか 窓越しに夫エベレットはいつ窓(フレーム)を覗きこむか 日常の動作が端正に振りつけられ 尚且つドキュメンタリーのように慎ましくこの夫婦に相対してゆくキャメラは 『パターソン』が撮り損ねた夫婦の微細なゆらぎと孤立した創作空間の大切さを尽く捉えている
その距離感は音楽同様抑制が効いて好ましく サリー・ホーキンスの演技はまるで『散り行く花』(Broken Blossoms/1919年/アメリカ/74分)のリリアン・ギッシュように細やかで イーサン・ホークの受けの演技はまるで『浮雲』(1955年/日本/123分)の森雅之くらい完璧だ
「イーサンのような共演者の前では実力を最大限に出そうと思う。エベレットを演じられるのは彼しかいないわ。人は周りの人と同レベルにしかなれない」とホーキンスがインタビューに応えて 実際 イーサン・ホークの演技は とりわけ前半 何度かモノ叩いて物音を醸し 映画にスタッカートのような刻み痕を残してハッとさせる この苛立たしい音の強度は エベレットとモードのわずか4メートル四方の隣接性を 一種の科学反応(ケミストリー)が起こる空間に積分する程の「音圧」効果だ
緑色のペンキをゆっくりゆっくり塗ることの一瞬一瞬が 宇宙を企画する最小単位であると心する病(若年性リウマチ)のモードの指や筆の動き そこから滲み出す色彩は この町の海岸線に隣接するかのよう
当時ロバート・フランクも住んでいたノバスコシアのスカイラインは低く 地表と青空の隙間には海岸線が住まう
この夫婦の関係の狭まりとはこうした性質のものであることを アシュリング・ウォルシュというアイルランド出身の女性監督は 開かれた海岸線のカットで幾度も暗示している
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同じく女性監督イギル・ボラのドキュメンタリー『きらめく拍手の音』(Glittering Hands/2014年/韓国/80分)は 聴覚障害の両親とそのもとで育った「CODA」(聴こえない親をもつ聴者の子ども)の監督と弟を捉えたセルフ・ドキュメンタリーだが 新鮮なのは 「障害者」と「健常者」のぶつかり合いや出会いの可能性をバリアフリーで消去してしまうのではなく 見つめることと聴こえてくる音との相剋として描いている点だ
導入部に父親の表情を捉えたアップが入る そこに秒針の音というテロップが出て てっきり彼は時計を見つめていると思い込んでいたら 父親はテレビを見ていることが次のカットで示される 「健常者」である観客の私が 如何になにもかも音と同期して画を見ているかに気がつくハッとする場面だった
この2つのカットのモンタージュが 監督の「意図」かどうかはわからない しかし 『しあわせの絵の具』同様 2つの焦点の相剋から生まれる目線がここにはあった
視覚と聴覚の違いや 聴覚性の優位といった理論ではなく 映画における「聴覚障害」とは見えるものの描写であるならば 「沈黙」とは見えないぶつかり合いを見えるようにすることにつながる
この映画で観客は 何時になく「沈黙」に出会うとしたら それは静態的でありつつ この夫婦 或いは 娘から見た両親を含めた「私」のそれは事実問題だからこそ 語りながらも沈黙する身振りが豊かなのだ
この家族には傲慢なところがほとんどない
また気取った無邪気さもない はかないことを夢に見て とりとめのないことをあれこれ考える日々が垣間見える
畑の草むしりをしながらでも 白菜を切りながらでも 宇宙と等しい可能性があることを この新人監督は見逃さない
まだキャメラに慣れない監督のキャメラ位置(姿勢)が 再び家族を繋いで そして このドキュメンタリー映画自体が聾唖と成って行くかのようではないか
2018.1.06-3.31