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『ラッキー』Lucky

アメリカは東海岸も西海岸も 人口が密集している大都市ほど孤独感が強い印象があるが 『ラッキー』(Lucky/2017年/アメリカ/88分)は 砂漠に近いアメリカ南西部の何処か きわめて人口密度の低い州の田舎町が舞台なので 寂寥感はほとんどなく 孤独ではない「一人暮らしの老いぼれ」が不器用なタッチで描かれていた
アメリカのホーム・ドラマには ときに探るような目付きで他人を見たかと思うと 次の瞬間 一個の物体と化しているような表情が映る
ラッキー周辺の(俳優たちは)皆 TVドラマでお目にかかる表情ではなく この映画は表情よりも顔の優位と共にあることで潔癖だ

どこまでも続くような山並み 果てしなく広がる空 ラッキーをじかに取り巻く現実のみが支配する(「現実主義」がモチーフとして散りばめられているから彼はアナーキストだろう)設定なのだが 人間から見たら鈍い陸亀のように二百年間いまと変わらずサボテンの周りにほとんど人がいない
なのに この「亀の島」には孤独はない

テクノロジーや権利という近代社会の分断線とは 都市の途方もない孤独のせいかもしれないと逆に思えてくる
例えば親権とか 禁煙 著作権 その考えはラッキーには馴染まない
空や土地の暖かさを売ったり買ったりできるのか 新鮮な空気 水の輝きを人間は所有してはいないのだから とラッキーは言う

ラッキーは一個の物体ではなく 前よりもいっそう他人の関心を引き付ける存在となっていることに映画を見終えて気がつく
周囲の人をも変えてしまうラッキーを目のあたりにした人は 少なからず心を動かされ それがまたほかの人にも伝わって行く過程がこの映画の運動だ
映画監督のデヴッド・リンチが俳優として出てきて 亀に遺産相続をさせたとラッキーに話すリンチが北野武だとすると ラッキーは大杉漣だろうか
彼らは映画というキツい酒を飲み過ぎた 帰ってきたヨッパライに違いないが

社会変革とは本来これと同じやり方で成し遂げられてきた とラッキーの態度を見てわかる
大衆は国家計画とか組織の中に位置付けられ 大抵はその組織の中で暮らし ラッキーの行動をまともに受けとることすら忘れてしまう
つながりを断ち切ろうとする経済という名のまやかしに紛れて

古き時代の覇気を取り戻すかのようなラッキーの体操や歌は 実際 沖縄戦を戦ったハリー・ディーン・スタントン自体の習慣だったかもしれない
彼はいつも彼自身を演じていたように思うが 90歳の彼は「自分であること以外のものを必要としない人間」であり 「社会から見捨てられた人間」でもあったが それは欲しがることをやめた 代償を払う人のことでもある

戦争…愚かなことをしたものだとラッキーは元海軍の退役軍人(トム・スケリット)とダイナーで語り合う
人間は誰もが砂漠だと
犬よりも愛情に於いて劣ると

映画の中でラッキーが言う一人暮らしと寂しさとは違うとの論理は 確かハリー・ディーンが座右の銘としていたインディアンの酋長の言葉通りだ


一人でいて 死について考えることがある
死に対する恐れを克服することができるだろうかと 恐れすぎると 現実に死ぬ以前に 死んでいるのと同じ状態になるだろう
死を恐れないようなところまで行きつくことができるかどうか このことが一番大きな問題じゃないかと思う

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