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(小休止的映画評)『ホース・マネー』監督 ペドロ・コスタ
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監・撮:ペドロ・コスタ 演:ヴェントゥーラ・タリナ・ヴァレラ
どのように映像を加 工しようとも 100%の割合を分割してそれ(一枚のスクリーン)に収まるように映像を重ねていくのだから 平面に映像がごちゃごちゃオーバーラップで重なっても 映画の中ではそれほどいい効果をうまない
絵画を模した絵画的な映像は 映画での場合 フレームとの関係で非常に制限される
ペドロ・コスタは本作で 映像を重ねること サイズを変えることを積極的に選ばない
同じ枠を持つセザンヌはふたつとはないが 小津安二郎のすべての作品は同じ枠(スタンダード・サイズ)を保っており 本作もまたスタンダード・サイズだ
何が言いたいか 映画の自由とは絵画とは別のところに見出される
逆に 優れた映画人・コスタは常にこの制限を意識し それを受け入れる
オーソン・ウェルズのロー・アングルの仰角ショットは常に恣意的であるが しかし そうすることで物語の内側に別の自由が見つかるように
写真の場合はどうだろうか キャパやドアノーは 意味を持つ主題を写すことから出発したが コスタが冒頭に引用した19世紀初頭の写真は意味を必要とせず 作家性を排したものだ
その 最初のカットが映し出される長さの厳密さこそが 後続のカットの長さを正当化する
或いは モネが光と呼んだものと ポルトガル人が光と呼んだものとは違うように とりわけ翳りをまだ一度も学んだことがないかのように 本作は光を遮る
とりわけ南蛮美術と呼ばれるものは ポルトガル人から伝わったものであり アラブ 或いは 中国の美術に 私自身は翳りを見出だすことは出来ない
本作にも ほんのわずかだが 光を感じることはある……それはヴェントゥーラの赤いパンツ姿と夜の路上 エレベーターのメタリックな壁に反射した翳りとしての光沢だ
しかし ムンクの「叫び」にあんな高値がつくように 映画には高値がつかないのはどうしてか
ムンクには大衆が認める何か深遠なものがあるに違いないが ムンクの「叫び」では 不安におののく少女とその少女の見ている光景が おそらく同じ画面に描写されている
画中の人物の見ている不気味な光景を 自分の目で見ることを通じて 画中の人物の不安を 自分の不安のように感じる
これは現実にはありえないし ジェームズ・ワンの快作『死霊館 エンフィールド事件』の水を口に含んだ少女の姿がアウト・フォーカスのなかで悪魔の独白へと変わり それを録音するパトリック・ウィルソンのアップの同一画面のように あくまでホラー演出効果になってしまうだろう
昨今は映画ないし映像に対しての感情や情緒がすっかり薄っぺらく成ってしまったように感じるのだが……
ホラー映画のようにエクソシストを恐怖感と共に演出するわけではないコスタは ついに狂ってしまったヴェントゥーラのつくり話を 嚇しでもお涙頂戴でも決してない 奇妙で凄まじい傷痕の永劫回帰として描く
そのゆるやかな 非現実ともいえる空間がわれわれのなかで現実と交錯しながら積み重ねられ また 「退く」ことによって 登場人物がますますはっきりして来るのが凄い
本作が平和や平成から果てしなく遠い所以は ヴェントゥーラの手の震えから続いているとみられるからだ
それは現実にはほとんど掴み得ない「かくれた政治的な意味」(ベンヤミン)の震えだろうか
結婚式の様子を撮影し その写真を整理しないように 目を凝らさねばならないような結婚式はなくなった
すでに 最初からしてその男女には視点がなく むしろ 日用品としてのiPadやiPhoneは 人々の手中に収まってすべてを凌駕したが 少なくとも 偉大なヴェントゥーラの記憶は 安っぽい携帯には納まらない
まるで一個のリンゴや静物のアスパラガスのように 音声と化したその個人的な記憶の中に テレビやiPhoneの映像よりも強力なイマージュが実現されているのを見出すとき それがたとえ敗者の記憶であっても 自由奔放に広がったり深まるものであるという点では 生々しい「過去現在進行形」であることには違いない
そこが ナンニ・モレッティの『母よ、』との いちばんの違いだろうし 短編『スウィート・エクソシスト』が全く異なった印象の編集によって 新たな鼓動を本作で獲得した所以だ