(七十一)江戸時代の小唄『お互いに』『梅は咲いたか』を鑑賞しよう
今、2024年の元旦である。それに相応しいと言えるかどうか分からないが、年頭に、江戸時代に作られた有名な小唄を二曲紹介したい。先ず、『お互いに』から味わっていこう。
お互いに知れぬが花よ、
世間の人に知れりゃ、二人の身の詰まり。
あくまでお前に情立てて、
惚れたが無理かえ ションがいな。
迷うたが無理かえ。
「身の詰まり」とは、どういう意味であろう。「身が詰まる」には次の解釈がある。
・肩身が狭くなる
・進退に窮する
・窮地に追い込まれる
・身の破滅となる
これ等の意味は似通ってはいるものの、ニュアンスが異なる。「情を立てて」とあるが、その意味は、「義理立てする」「誠意を示す」である。従って、「身が詰まる」は「身の破滅」という意味ではない。情深い女の歌である。
二人の仲は、必ずしも世間に胸を張って言える仲ではないが、女が間男を取るような違法な仲でもないことが分かる。ここでは、「肩身が狭くなる」と解釈しておこう。
落語の六代目圓生は、「身の詰まり」の所をリズミカルにおどけて、そして「詰まり」の所を高く発音していた所をみると、圓生も「身の破滅」とは解釈していなかったと思う。
江戸の末期(安政年間)に作られたらしいことを考えると、江戸時代の倫理観が緩み、例えば身分差の大きい男女の仲、例えば藩主や大店の惣領との仲を詠った唄かも知れない。ここで、この小唄を翻訳しておこう。
二人の仲が人に知られないのが花です。
知られてしまえば、
肩身の狭い思いをする事になるでしょう。
私は貴方の立場を考えています。
しかし、貴方に惚れてしまいました。
どうしようもありません。
貴方に迷った私がいけなかったのでしょうか
私を迷わせた貴方もいけないのよ
参考として、この小唄を歌っている動画を次に二つ挙げておく。是非ご鑑賞あれ。
小唄「お互いに」(とよ菊美 紫沙)https://www.youtube.com/watch?v=HfUP0P8kTyE
小唄「お互いに」(巽津留千代) https://www.youtube.com/watch?v=Nk7BnssPi60
次に『梅は咲いたか』を味わおう。「梅は咲いたか桜はまだかいな」は人口に膾炙したセリフである。
梅は咲いたか、桜はまだかいな
柳ゃなよなよ風次第、山吹や浮気で色ばかり
ションがいな
浅蜊とれたか、蛤ゃまだかいな
鮑くよくよ片想い、さざえは悋気で角ばっかり
ションがいな
柳橋から小船を急がせ、舟はゆらゆら波次第、
舟から上がって土手八丁、吉原へご案内
この小唄について、「世界の民謡・童謡」(梅は咲いたか 江戸端唄)に要領よく纏めた解説があるのでそれを引用する。
『梅は咲いたか』は、明治時代に流行した俗謡『しょんがえ節』を基にした江戸端唄(はうた)・小唄。花柳界の芸妓たちを季節の花々や貝に例えて歌っている。今日ではお座敷唄として有名。
歌詞の中で繰り返される「しょんがいな」は、歌の調子をとるための囃子言葉。
一見すると「しょうがないな(仕様がないな、仕方がないな)」の類と解釈したくなるが、具体的な意味はないようだ。
ただ、「ああそうかいな」、「それからどうした」といった軽い合いの手としての意味合いはあるように思われる。
歌詞に登場する単語の意味について補足すると、梅・桜・柳・山吹は花柳界の芸妓たちを暗示したもの。梅の花は若い芸妓、桜は上の姐さんといったところだろうか。柳はゆらゆらと移り気、山吹は実を結ばない浮気性。
ちなみに、実をつけない花・山吹(上写真/八重)については、後拾遺和歌集に兼明親王が詠んだこんな歌がある。
「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」
あさり、はまぐり、あわびといった貝についての野暮な解説は割愛するが、一点だけ捕捉すると、鮑は二枚貝ではないため相手がいない片思いのような状態を意味している。いわゆる「磯の鮑の片思い」というやつだ。
梅は咲いたか 江戸端唄 https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/ume-saitaka.htm
野暮ではあるが、念のために説明を加えておく。芸妓の色気は梅や桜のように自然なのがよく、柳腰をくねくねしたり、山吹の様に派手な振る舞いは良くないことを暗に述べている。
この小唄を歌っている動画の例を次に挙げておく。是非、ご鑑賞あれ。
梅は咲いたか https://www.youtube.com/watch?v=9AGLknOcvsM