落語の話。『死神』について。
『儒烏風亭らでんの落語がたり!』の感想です。
この記事は、以下のKADOKAWA ダ・ヴィンチWeb連載記事の感想、というか、読んだ後で色々考えたことであります。
Vtuberの儒烏風亭らでんさんによる、古典落語『死神』に関する解説。
儒烏風亭らでんさんは、美術・芸術に関する造詣が深く、実際に学芸員資格を有し、箱根のガラスの森美術館の、音声ガイドなども行っています。その一方で、噺家修行中の前座見習いとして、春風亭一門に入門し、日々研鑽されています。
つまり、話す内容、話す技術、そのどちらも折紙付き。
さらには、それをひけらかさない……というより、本人がそれを特別な事と思っていないような、自然体が、なんとも尊い。
一例を挙げてみますと。
この動画の十七分あたり、さらっと落語のはじまりは四百年前です、と言っている。
落語のはじまりが四百年前という話の根拠は、千六百二十年代に、古典落語の原典とされる安楽庵策伝『醒睡笑』が書かれたことに拠ると思われますが、そこまでは触れず、あっさり次の話題に移っています。
こういう、知識に対するクールな態度は、学んだ事が、しっかり血肉になっている人にしかできません。
例えば、私のような半可通は、
「オレこんな事も知ってるんだぞ、すごいだろ」と、
知ってる事をありったけ吐き出そうとする。さらには、
「オレこんなにいっぱい考えたぞ、どうだ賢いだろ」と、
考えた事を、まとまりなく書き連ねる。
その結果がこの記事。ダラダラ書きすぎて、ごらんの有様ですよ。お恥ずかしい。
さらに稀有な美点は、知識がありながら謙虚であること。
情報があふれる今、某NHKのチコちゃんをはじめ、知識を、他人を見下し罵倒するための道具にする者だらけです。そのため、逆に知識にヘイトを向ける者も増え、反知性主義、なんていうものまで出てくる始末。
でも彼女はその真逆で、時には見ている側が、ちょっと卑下しすぎじゃないかと思うほど、謙虚です。
しかし、真に賢明な人は、往々にして謙虚なもの。謙虚だからこそ、自分の無知と向き合える。他人に教えを乞う事ができる。謙虚でなければ、真に智慧を得る事はできません。
謙虚どころか、むしろ彼女は逆に、知らないと質問をする者、分からないと疑問を持つ者に対し、最上の敬意を払っています。
X(旧Twitter)の「#教えてらでんちゃん」を見るにつけ、その誠実さが如実に伝わってきます。
それは、答を知っていることより、よい疑問を持つことが重要である、問いを適切に立てる事が、より広い知識と深い理解へのはじまりだという、真に知識を愛する態度が、完全に身についているからでしょう。
知性と情熱と人格、全てにおいてSSRな人です。
そしてその、知性と情熱と人格の輝きを、閃かせるような瞬間が、先に例に挙げたアーカイブのように、配信の中にちりばめられているのです。
ただ、あまりに自然体で謙虚なので、なかなか目立ちません。だからこそ、それを見つけたときの喜びは、はかりしれない。
そのたびに私は、
「おそろしく尊い言動。オレでなきゃ見逃しちゃうね」
と、団長の手刀を見逃さなかった人みたいにつぶやくのでした。
「信じられないほどの才女だ、久々に血が騒ぐぜ。オレの推しだ!」
グリム童話『死神の名付け親』について。
さて、この落語『死神』の解説で、儒烏風亭さんは読者に宿題を出しています。
「死神が、主人公に力を与えた動機はなんだったか?」
儒烏風亭さんは、米津玄師『死神』のワンフレーズを手掛かりに、「この死神は元は人間だったから」という解答例を出してみせています。
もちろん、正解がある問いではありません。
問いは、より広い知識、より深い理解への扉。
掘り下げて、何が出るかを楽しむもの。
というわけで、自分も死神の動機について考えていきます。
落語『死神』の元ネタとされる、グリム童話『死神の名付け親』では、死神の動機は明白です。動機というより、与えられた役目というべきでしょうか。
「名付け親」と訳されていますが、訳された物語を読むかぎり、幼児洗礼の代父母のことのようです。
代父母というのは、キリスト教の、信徒の団体の中での、後見人的な存在。ある人が洗礼を受けて信徒となるときに、既に所属教会で信用がある信徒が、実際の両親の代わりに、教会組織の中で保護者のような立場になるシステムです。
日本の婚姻における、仲人みたいなもの、と言えるでしょうか?
何かと面倒を見たり、相談に乗ったりする関係。
幼児洗礼の場合は、洗礼名の選択にも関わりますので、それを以て「名付け親」と訳したのでしょう。
代父母は英語で「ゴッドファーザー」「ゴッドマザー」。
組織の中での親という意味で、マフィアのボスを描いた映画のタイトルも「ゴッドファーザー」。
ディズニー映画を観ながら「なんでこの魔法使いのおばあさんは、シンデレラに魔法をかけてくれるの?」なんて疑問が湧いても、キリスト教文化圏であれば、「フェアリー・ゴッドマザー」という役名で、なんとなく察せられる。
そういうわけで、名付け親になったという時点で、マフィアのボスとして面倒をみたり、カボチャを馬車に変えたりするのはあたりまえ、という事になるので、病人が死ぬか助かるかわかるようにしてやる、程度の事は当然やらなければなりません。
キリスト教の宗教説話。
この『死神の名付け親』というお話は、キリスト教の宗教説話の要素が強い。
最初に神様の助けを断るくだりがあります。
「神様は不平等だ」
そして死神に助力を求めます。
「死は平等だ」
ここが本当に重要。
さて、これを念頭に、お話をもう一度読み返してみます。
死は、確かに平等です。お金持ちにも、王様にも訪れます。
では……不平等なのは誰だったか? 神様だったでしょうか?
相手が金持ちだから、王様だからという理由で、ルールを曲げたのは、他でもない、この主人公です。
死を知る力が与えられたのは、その父親が神様を不平等だと責めて、死の平等さを褒めたたえたからなのに、その力で死の平等さを破壊して、不平等を作り出したのです。
その結果、平等であろうとする死によって報復を受ける。
「不平等を作るのは、神ではなく人間なのだ」
「悪や不幸を生むのは、神ではなく人間の欲と愚かさだ」
という、典型的なキリスト教説話です。
キリスト教説話において、例えば悪魔であっても、それは無為に悪をなすわけではありません。人間の愚かさや欲望や欠点を明らかにすることで、神の正義や善性を示すための存在です。悪魔によるどんな悪行も、その裏には神の意志がある、というのは、旧約聖書ヨブ記から一貫したお約束。
悪魔どころか、ここでは死神です。死神は恐ろしい存在ですが、神の使いでもあります。
聖書の中で、死は「刈入れられた後に、良い麦は大切に蔵にしまわれるが、毒麦は消えない炎で焼き尽くされる」などと、麦の刈入れに例えられています。
死神は大きな鎌を担いだ姿に描かれます。あれは麦の刈入れ用の鎌。彼の仕事は刈り取る事だけ。刈られた後、その麦が蔵にしまわれるか、焼かれるかは、神様しか知らないこと。
このお話の中で、主人公がいざ自分の死を目の前にして、大きな恐怖に襲われるのは、自分が焼き尽くされる側だと自覚しているからかもしれません。
誠実に、ほんとうに患者や家族のことを想って、その力を使っていたのなら、大切に蔵にしまわれる側になっていた。恐れる事もなかったのに。
何度も何度も、多くの人の死と回復、家族の悲しみや喜びに立ちあってきたはずなのに、それを直視してこなかった。自分の消えかけた蝋燭を見て、初めて死というものを実感した。そんな愚かさも見えてきます。
こういった教訓をもたらすための存在であり、そのための行動をとることが、キリスト教説話の中での、悪魔や死神といったキャラクターの担う役割です。
ちょっと脱線。
ただ、人の生死や寿命は、キリスト教では本来、神の管轄下にあるはずなので、死神が蝋燭で管理している、というのはずいぶん異教的。
フス戦争だの三十年戦争だの、ドイツは宗教面では色々と厳しかったかと思うのですが、こんな死神の話に限らず、魔法や妖精の話も一杯残ってるのは面白いですね。
どうやって折り合いをつけてたんだろう? それとも、グリム兄弟の努力もむなしく、失われてしまったお話もいっぱいあるのかな。
中国説話では、人の寿命を管理するのは主に北斗と南斗ですが、変わったところでは羊の群れがでてくるお話などもあります。
ある金持ちの妻が、商用で旅行に出た夫を追いかけるように、牧夫が羊の群れを連れて行くのを見た。
何事かと問うと、その牧夫は
「これはあなたの夫が死ぬまでに食べる羊です。この羊が全部、食べ尽くされた時にあなたの夫は死にます」
と語ったとか。
寿命を知りたい、どこかにそれを示すモノがあるのではないか。そんな気持ちは、洋の東西を問いませんね。
枕元にいれば死、足元なら復活、というのも何か理由があるのかな。
エジプトのミイラ、その棺や玄室では、頭の側に冥界の神オシリス、足元に豊穣や生命をつかさどる神イシスを描くとのこと。死者の顔を覗き込んで見守るのが冥府の神、復活して起き上がった時に向かいあうのが生命の神とか……いくらなんでも、さすがに関係ないか。
病床をひっくりかえして、死神の場所を入れ替えたように、運命を出し抜く手はないか。そんなお話も世界中にあります。
インドの説話では、ある兄妹が、悲惨な運命を予言された。
「兄は死ぬまで、持てる財産は牛一頭だろう。
妹は毎晩、男と寝て金銭を受け取って生活する」
それを聞いて嘆く兄妹に、通りすがりの賢者が助言した。
「兄は、毎日牛をつぶして、近所のみんなに一切れ残らずごちそうしなさい。
妹は、男たちに、一晩ごとに大鍋いっぱいの金貨を払え、それ以下は絶対に受け取らないと言いなさい」
兄が助言に従うと、牛まるまる一頭を毎日ごちそうしてくれると、町中の者が喜んで、兄に必要なものは何でもくれるようになった。それで、牛を一切れ残らず振る舞っても、次の日には新しい牛が一頭、必ずあるようになった。
妹も助言の通りにしたら、毎晩、大鍋いっぱいの金貨を支払えるのは王様しかいなかったので、王の妃となった。
こんなふうに、ヒドイ運命を逆手にとって大逆転、なんて快感を与えてくれる物語も、世界中にたくさんあります。
落語『死神』はどういう噺なのか?
話を落語『死神』に戻しまして。
さて、元ネタからの改変で、一番大きいのはやはり、この「名付け親」要素がなくなった、ということでしょう。
しかし、キリスト教説話としては一番重要な部分で、ここを失くしてしまったら、このお話自体の存在意義が消えてしまう。
さらには、ゴッドファーザーとして面倒を見るとか、宗教説話のキャラの役割としてとか、まさに、今回問われた「死神の動機」が消えるのです。
さあ困った。
そもそも、なんでこんな話を落語にしようとしたんでしょう? 笑う所、無いじゃありませんか?
『お神酒徳利』はまだわかる。あれは、元ネタのグリム童話『ものしり博士』もコメディです。
グリム童話、コメディがかなり多くて、落語に使えそうなお話もいっぱい。
『おりこうなハンス』は会話のテンポとハンスの与太郎っぷりが気持ちいいし、『しあわせハンス』はわらしべ長者の逆回転だし、『かしこいエルゼ』はオチが落語の『らくだ』だし、『こわがることをおぼえるために旅に出た若者』は怪物退治の話でアクション多いし、『賢いグレーテル』はチキンを食べる所作で見せ場がたっぷり作れる。
それなのになぜ『死神の名付け親』を選んだのか?
主人公は最初から自殺志願、相棒は死神、出てくるのは病人や死人その家族、最後には死んじゃうわけで、景気が悪いし救いもない。
「アジャラカモクレン、スイコパス、テケレッツノパア」
なんて呪文も、話が暗いのを何とかしよう、という工夫から付け加えられたものだそうで。オチも、新しいロウソクに火を移すのに成功して生き残るパターンなど、噺家さん方はみな苦労しているようです。
死を扱う落語は、決して少なくありません。『のざらし』『らくだ』は死体が主役、『たが屋』『提灯首』では噺の中で殺人が行われる。『死神』同様、自殺未遂から始まる噺には、人情噺の『文吉元結』、怪談噺の『もう半分』など。
いや、怪談噺は死人が出てナンボだし、人情噺でも、そこから救われるっていうカタストロフがあるから、まだ分かる。
滑稽噺にしても、死が恐ろしくて深刻なものであるからこそ、笑い飛ばすところに快感があるわけで、それは落語にかぎらず、コメディの存在意義のひとつでもある。
古典落語は、演じる噺家の解釈が重要。
キリスト教説話としてのタガが外された結果、落語『死神』は、まさに、死神か幽霊のように、とらえどころのない噺になりました。
何を強調すればいいのか、噺家は選択を迫られます。
死という、最も恐ろしく不条理で、しかし誰にも訪れるものを笑いとばすのか。
そんな運命を、機転をきかせて出し抜く快感なのか。
後でろくな事にならないとわかっていても、欲望に負けてしまう愚かさなのか。
結局、因果応報、運命からは逃れられない、どうしようもない虚しさなのか。
怪談でもあり、滑稽噺としても演じられる。ともすれば、人情噺にもできる。
噺家の解釈と力量次第で、どんな噺にでも、どんな演じ方もできる。
自分が好きだったのは、自分のロウソクの火を移し替える事に成功した主人公が、大喜びで、他の短いヤツや消えかけたヤツも片っ端から新しいロウソクに付け替えて、町中の病人や老人がみんな元気になっちゃった、という、超ハッピーエンドのヤツでした。演者は誰だったかなあ?
この翻案を手掛けた、三遊亭圓朝がどこまで意図していたかはわかりませんが、噺家の解釈の幅が非常に大きいからこそ、古典落語の大ネタとして定着したのでしょう。
落語に限らず、芝居や映画のネタ、それこそ、米津玄師の名曲にまでなっています。
死神の動機を問う理由。
解釈の幅が広い分、噺家は苦労しそうです。
どう演じればいいのか。
「この死神の動機は何か?」というのは、それを考える、大きな手がかりになりそうです。
落語の登場人物は定番キャラがメイン。与太郎は愚者だし、ご隠居は物知りだし、八つぁんはノンキ者で、熊さんはせっかちで、侍は威張ってる。そこには、なぜ? という疑問の余地はあまりない。
疑問しか出てこないこの死神は、落語の登場人物としては非常に特殊です。
死神の動機に、正解はないでしょう。
とにかく人間をからかって遊びたい、という、トリックスターと考えれば、ドタバタ成分の多い、滑稽噺になるでしょうし、人を陥れてやろうという、悪意に満ちた存在であれば、ドロドロした怨念のこもった怪談になるかと思います。
主人公に思いやりを持っていて、愚かさを嘆いたり欲をたしなめたり、死に瀕した患者や家族に同情させるような死神であれば、人情噺のキャラクターです。
逆に、一切、何を考えているか、動機は何か、全く分からない、正体不明の存在を演じれば、死という運命の不条理さ、不気味さそのものの存在になって、その意図をうかがい知ることすらできないという、人間の無力さと絶望をつきつける噺になるかと……スッゲェ難しそうですけど。
この演目、噺家が死神の動機を考えることは、どんな噺にしてどう演じるかを決める、ということに直結している。
では、聞く側への、死神の動機を何だと考えるか、という問いは、つまりどんな噺を聞きたいか、という問いであり、ひいては何を落語に求めているか、という問いですらあるでしょう。
『死神』や落語に限った話ではないけれど、創作したり、演じたりする場合、登場人物の動機を決める事は非常に重要です。
キャラクター設定というのは、服装や職業や口癖や技の名前を考えることではなく、行動原理や価値基準を決めること。ある登場人物が、なぜそういう行動をするのか、物言いをするのか、その根拠が定まっていないと、シーンによってバラバラ、別の人物になってしまう。
コレはとんでもなく重要な事です。
殊に、一人で衣装も舞台装置もなく、座ったままで全員を演じなければならない落語の場合、キャラの把握は死活問題。
噺家修行中の前座見習いは、厳しい師匠から、「この死神は、どういう動機でこんなことをしているのか、考えてみろ」なんて、問い詰められているに違いありません。悩んだ挙句、自分が連載しているコラムの読者に、その難問を振ってみたりするかもしれませ……ん?
個人的には、死の蠱惑的な一面を強調して、「私が永遠の安らぎを与えてあげましょう」なんて、艶めかしく誘惑してくる、妖艶な美女の死神、なんていうのが見たいです。
そんなのを、もしも儒烏風亭さんに演じられたら、もう、たまらないだろうなあ。
……夜噺の『死神』ってのも、アリなのかしら?
儒烏風亭さんの動機。
往々にして古典落語の演目は、その場所や時節、聴衆によって、噺家が演じ方や筋立を変える。それこそが、四百年前から続いているのに、いまだに新しい理由。
まさに、『死神』はその代表。異色ではありますが、古典落語の深淵、魅力を説明するのに、これほどふさわしい選択はありますまい。
儒烏風亭さんは今回、前後編の二回にわけて、オチまで明かすというタブーまで踏み込みながら、それでも『死神』という演目を選んで解説をしました。
いよいよ本格的に落語の魅力を語ろう、奥深さにドンドン踏み込んでいこう、という熱い想いが伝わってきます。
次の連載からは、羽織を脱いだ姿で登場するのかな。
連載も三題目、寄席で言えば、前座・二つ目と来て、仲入り前の大ネタというところでしょうか。
儒烏風亭さんは、ぜひ実際に寄席に足を運んで、生の落語を聞いて欲しい、と、事あるたびに訴えています。
それに反するように、「今回はオチまで話してしまいました」と書いていましたが、実際に聴きに行った場合、どうでしょうか?
生の落語を勧める理由として「同じネタでも演じられるたびに違うから」とも話しています。
特に、この『死神』は、違ったオチで演じられる可能性が非常に高い演目。
実際に聴きに行った人が「書いてあったのとオチが違う!」と驚いてくれたら……そんな意図を込めて、儒烏風亭さんは、この記事を書いたのでしょう。
……おそろしく深い配慮。俺でなきゃ見逃しちゃうね!
今回は落語の話でしたが、他にも美術展の見学記録や、読書感想文など書いてます。投稿したらTwitterで報告しますので、よろしければ、またご覧ください。