名古屋芸術大学・舞台芸術領域卒業公演『コジ・ファン・トゥッテ』
オペラの観劇に行きたいと思っていました。
去年の12月のこの配信、声楽経験者ときのそらさんの解説が秀逸で、対する儒烏風亭さんの応答もすばらしく、オペラの魅力を生き生きと伝えるものでありました。
それからというもの、自分もオペラの観劇をしたいと、思い続けておりました。
しかしまあ、オペラというのは敷居が高い。
まず、チケットのお値段がなかなかのものです。
新国立劇場の『魔笛』だとこんな感じ。
S席さんまんえん! いちばん安い席でも、はっせんえん……全く舞台が見えず、音しか聞こえない席は1650円。何それ。しかも、チケット争奪戦がすごくって、発売されたら即売り切れだとか。着ていく服もないしなあ。そもそも東京だし。まあ自分の文化芸術への欲求は、美術館通いで満足するか。
行けそうな舞台を発見。
そんな感じで、悶々としていたのですが。
美術館情報を漁っていたら、こんなものが引っ掛かった。
芸術大学の卒業公演。そういうのもあるのか!
卒業公演と言っても、舞台美術や音響、照明といった裏方の勉強をした人の卒業発表なので、演者・演出・奏者・指揮はプロである。そしてお値段はごせんえん。
美術館に行って、図録を買うのと同じくらい。
あるいは、映画を二本観てパンフ買うくらい。
新国立劇場の五分の一! お買い得!
しかもチケットは当日会場で買えばよし!
たぶん客層は学生の友達とか家族とかなので、着ていく服もカジュアルでよし!
フレンチ食った事ない奴が、最初からマキシム・ド・パリの最高級フルコース喰う必要はないのだ。
コミケ初心者が壁サーの限定本を買う必要はないのだ。
オペラ初体験なら、こういうカジュアルな方が、むしろ良い気がする。うん。ドンドンそんな気がしてきた。
というわけで、コレを見にいくことにしたのです。
『コジ・ファン・トゥッテ』の予習をしました。
作曲は『魔笛』と同じモーツァルト。歌詞というかセリフは全部イタリア語。それぐらいしか知らない。
イタリア語なんかで歌われたところで、まるでギリシア語、ちんぷんかんぷんだ。
でも先の配信で「字幕が出るから大丈夫だよ」と言っていたなあ。ときのそらさんが大丈夫というなら、大丈夫かしら。
調べたら、名古屋芸術大学の過去の舞台の動画を見つけた。
ゲネプロ? 検索。最終の通し稽古ね、なるほど。
字幕ってこんな風に出るのか。歌詩には、色々装飾がついて長いけれど、お話の筋をたどるのに必要な部分は少しだけ。そこだけ字幕で読んで、あとは歌を聞いてイメージを膨らませていく感じでいいのかな。
オペラの台本を対訳してくれているサイトもあった。
念のため眼を通しておく。上の、公演の動画と付き合わせていくと、かなり違うところもソコソコあるんだけど、これは構成・演出の範疇なんだろうなあ。
あらすじ、登場人物を把握。
二組のカップルがいる。親友同士の二人の青年と、その恋人の美人姉妹。
姉のフィオルディリージの恋人は、青年グリエルモ。
妹のドラベッラの恋人は、青年フェランド。
どちらのカップルも、お互いに相手に夢中。他の恋人なんか考えられないと、一途な想いを抱いている。
ある日、青年二人が自分の恋人の一途さを自慢していると、悪友の「俺は世間を知ってるぜ」みたいな顔したオッサンが
「勝手な幻想を抱いちゃダメだぞ。相手も人間なんだから、心変わりくらいするさ」
と、余計なことを言う。マジで余計なお世話だ。当人同士が満足しているんだから、ほっとけばいいのに。
役名は、ドン・アルフォンソ。自称哲学者……胡散臭いったらありゃしない。その胡散臭さを裏切る事なく、オッサンは
「いいや俺たちの恋人は推し変なんかしない!」
とブチ切れる二人に、
「じゃあ賭けるか」
と、一つの悪だくみを持ちかける。
青年二人は、王様の命令で戦争に行くとウソをつき、姉妹の元を去ったふりをする。そして変装して別人になりすまし、寂しがっている姉妹を口説く。それで口説き落とされちゃうかどうか、姉妹の心を試そうというのだ。
考えて見ればヒドイ話。人の心を弄ぶ事を勧めるコイツは、メフィスト・フェレスか何かじゃないかしら? こんな奴の口車に乗せられて、四人の恋の行方はどうなっちゃうの?
というお話。
このカップル二組、オッサン、そして姉妹に仕えるメイド。登場人物はこの六人。お話も二組の恋人の恋の行方という、単純なものだ。その上で、恋人を裏切るのか、裏切られたらどうしよう、そんな心の動きを、感情表現で魅せるタイプのお芝居らしい。それなら、セリフが聞き取れなくても、要所のみの字幕で十分いける。心理だの感情は、演者の歌い方や、演技から感じ取るのだ。
しっかり観て、聴かなきゃいけないな。
実際の舞台など
そんなわけで、初めてのオペラ観劇をしてきました。
予習で見たあらすじ紹介では、昔のナポリが舞台でしたが、今回の舞台では色々アレンジされていて、服装も舞台装置も現代風というか、ちょっとレトロかな? 女性はブラウス、スカート、パンプスで、男性はスーツ姿。現代の洋装だけどそれ以外は、国籍も時代も明確にしない感じ。
舞台のセットが、室内と屋外の二階建てになっていて、場面転換のテンポも良いし、上を見たり下を見たりするせいで、視覚に変化が出るのが気持ちいい。
案内されたのは二階席。受付の方に、
「この劇場も、オペラを観るのも初めてです」
と相談したら、全体を見渡せる席を勧めてくれました。
名古屋芸大の学生さんかな? 結果的には大正解。
舞台だけでなく、オーケストラピットまで十分見えました。そのおかげで「オペラの舞台ってこうなってるのか」と納得できました。字幕もオーケストラピットと舞台の間。視線の真ん中。読みやすいったらない。
よい対応をしてもらえた事に感謝です。
セットや衣装、音響や照明などの、舞台のスタッフの仕事を学んだ学生の、卒業成果発表ということでしたが、それらについては、初観劇で比較対象がないので、よく分からない。ただ素人目には何も問題なし。基本を完璧にして、ここから色々と個性を出していくのかな。
そんなわけで、私は初のオペラ観劇を、良い環境で済ませる事ができました。以下、観劇後の感想となります。
フィオルディリージとドラベッラ
美人姉妹の姉、フィオルディリージ。妹はドラベッラ。
大事な事だから二回言いました。
同じように試され、同じようにだまされてしまうんだけど、心の動きは全然違っていて、それが面白い。
結論から言っちゃうと、フィオルディリージは年長らしく、落ち着いているけど情が濃い。ドラベッラは好奇心旺盛で活発な妹で、よく言えば素直、悪く言えば単純……
そのあたり、セリフ代わりの歌詞だけでなく、歌いながらの仕草、他のキャラクターが歌っている時の反応や、歌と歌の間の立ち居振る舞いなどで、生々しく伝えてくる。
例えば、最初に恋人の青年たちと分かれる事になるシーン。姉は、深い嘆きを静かに示す。隣りに座る恋人にすがりつくのも、ゆっくりと全てを相手に委ねるように、体を預ける。
妹は、感情を爆発させるように、恋人にしがみ付いた後に、舞台の反対側まで泣きながら走って崩れ落ちる。
青年たちが去った後、その悲しみを言葉を尽くして歌うのも妹。姉は、悲しみを必死で耐えるようにそれを聞いている。前半、姉はわりと受け身。去った恋人を想って、じっと耐え忍ぶように、感情を表に出す事を恐れているみたい。
それに対比するように、妹の方は感情に素直に動く。
どうせなら別の男も試してみなよ、という誘いにブチ切れてみせるのも妹。でも、ちょっと面白いかも、なんてその気になって、別の男に興味津々、先にコロリとまいっちゃうのも妹の方。そして自分の気持ちに正直にならなきゃね、なんて明るく全肯定。こう書くと能天気な感じだけど、それが妙にチャーミングで可愛らしくて、そんなかろやかで自由奔放な性格が、たまらなく魅力的だったりする。
姉の方は「私は浮気なんかしない!」と気を張り続けるのだけど、だんだんそれが、恋人への愛のためなのか、それとも貞操だの道徳倫理だのによる義務感からなのか、分からなくなってくる。少なくとも「姉なのだから、妹の手本として、正しくあらねば」というのは確かにあった。
他の男に興味を持ち始めた妹に、咎めるような態度を取り、ついに妹が陥落すると、無力感に苛まれたのか、女だてらに軍服を纏い恋人の元に行こうとする。落ち着いているように見えて、追いつめられると突拍子もない行動に出るタイプ。そこにタイミングよく口説かれて、姉もついに心変わりしてしまう。
この「心変わりにも色々あります」という流れ、シナリオも演技も見事という他なし。
フェルランドとグリエルモ
姉妹の恋人、二人の青年。こちらは親友同士。
グリエルモは、姉フィオルディリージの恋人。
フェルランドは、妹ドラベッラの恋人。
外国のコンテンツは、名前覚えるのが大変ですね。
この二人も「一芝居打って恋人を試す」という同じ役回り。芝居が始まると、早々に一旦退場してキャラ変して再登場。それから二人の性格の違いがだんだん明らかになっていく。最初はカッコつけてイケメンぶってたのが、場面が進むほどメッキが剥がれてダメなトコがむき出しになっていくのが、なんとも面白いというか残酷というか。
最初に、戦場に赴くと告げる時「これは我々に課された義務なのだ」「自分の幸福よりも、国家への奉仕を選ばなければならない」などと、そりゃあカッコイイことを言う。まさにその凛とした紳士ぶりに、姉妹も惚れているのだ。
だけど、変装して別人になった二人は、そりゃもうお行儀が悪いったらない。
悪人ではないのだけれど、礼儀作法? 何それ美味しいの? まさにそんな感じで、姉妹に対して情熱的にグイグイ行く。歯の浮くような言葉を片っ端から並べ立てて、距離感なんか知ったこっちゃないと、抱きついたりすがり付いたり、もうパッションのままに攻めまくる。
お行儀のいいお付き合いが、よっぽど窮屈だったんだなあ……
ホントはこんな風に、ベタベタオラオラしたかったんだろうなあ……などと、感慨深いものがある。
でもその相手が、恋人とは別人、姉妹だというのが大問題。姉妹の方とも仲良くしたかったのかな、なんて邪推すらしてしまう。
しかし、フェルランドは、フィオルディリージを森の散策に連れ出すところまで行ったのに、最後まで口説かずに引いて「彼女は落とせなかった、浮気をしない誠実な女性だった」と証言する。気持ちに率直で奔放なドラベッラと付き合っていたせいで、大人の態度が染みついちゃっているのかな?
その一方、しっかり者の姉フィオルディリージと付き合っていたグリエルモの方は、ヤンチャな弟気質でもあったのか、遠慮のカケラもなくドラベッラに猛アプローチして、口説き落としてしまう。しかもそれを、よせばいいのに自慢げに、フェルランドにペラペラしゃべる。「自分の方がイイ男って事だよな」なんてマウントまで取ってしまう。
お前ら……ホントに親友なのか?
恋人に裏切られた上に、男性的な魅力まで見下されて、ブチ切れたフェランドは、激情にまかせてフィオルディリージに迫って迫って迫りまくる。
ちょうどフィオルディリージは心が折れかけ、グリエルモを追いかけて戦場に行こうとしていた、絶妙のタイミング。
そして堕ちるフィオルディリージ。
ここのところが、まさにクライマックス。
結局カップル交換か? でも男二人、変装したままだよね? どうすんだよコレ? などと観客を混乱させたまま、怒涛のエンディングに突入するのでした。
デスピーナ
このオペラで、自分にとって一番の魅力的なキャラが、このデスピーナでした。
フィオルディリージとドラベッラの姉妹に仕えるメイド。
青年二人の芝居の裏方として、八面六臂の大活躍!
単なる裏方じゃなくて、医者だの公証人だのに化けてみせる役者でもあるという。
というより、青年二人が一芝居打つという話を知らないうちから、恋人が戦場に行ったと悲しんでいる姉妹に「ちょうどいいから男遊びして楽しみなさい」なんて言い出すんだからとんでもない。
青年二人に対し「恋人の女心を弄ぶなんて酷い」なんていうヘイトが向かないのは、彼女のおかげだ。「むしろ女こそ、たくましく男を弄ぶべき」なんて、明るく朗らかに歌い上げてくれるからこそだ。
表の筋立ては、青年二人が芝居を打って姉妹を試す、という話なんだけど、その結果、青年の方も試されることになってしまったのは、既に書いたとおり。
そんな、胸の痛くなるような展開もありながら、この芝居がコメディとして成立しているのは、全てこのデスピーナというキャラクターのおかげだろう。
この芝居のテーマは「人生を楽しめ」かな? だとしたら、それを体現している存在だと思う。ホントに芝居の最初から最後まで、楽しそうに動きまわり、他のキャラクターを引っ掻き回し続けるのだ。
箱入り娘とも見える、お嬢様然とした美人姉妹に向かって、「男と女なんて、深刻になるなんて馬鹿々々しい、楽しんでナンボですよ」と、世知に長けたように笑って見せるメイドというキャラ付け、よほど波乱万丈、紆余曲折のある人生を歩んで来た感じなんだけど、年嵩の酸いも甘いもかみ分けた妙齢の女性とかではなく、ソプラノ……つまり若い女性にしたところが、また憎いというか、胸を心地よく惑わせるのだ。
モーツァルトの、このあざとさ!
この「分かってる」感が、たまりませんね。
ドン・アルフォンソ
今回の黒幕、というか主犯。自称哲学者の彼の「人間なんてこんなもの」という哲学が発端。「人間なんてこんなもの、だからこそ愛おしいのだ。欠点だらけで愚かな人間同士が、お互いを許し合い、受け入れ合うからこそ尊いのだ」というのを教えたかった、というのが結論。如是我聞。
デスピーナの相棒として、現場でも大活躍。要所要所での、しらじらしい小芝居で青年や姉妹を右往左往させる様子が、憎いやら滑稽やらで、たまりません。こんな嘘つきオヤジになりたいなあ。
最後にみんなお芝居でした、とネタばらしするのだけれど、コレで誰もキレないのは、彼の人徳なのか?
青年二人も、美人姉妹も、目を背けていた自分自身の欠点をむき出しにされてしまったので、怒るに怒れない、といった感じかしら。全員が、自分の愚かさ、弱さ、欠点を見つけてそれでも……いやだからこそ、それを楽しんで生きて行こう。と、みんなで歌い上げて大団円。
人間は欠点だらけ。心変わりもよくある事。いくらガチ恋と沼っていても、いつか推し変、ありうる話。
『コジ・ファン・トゥッテ』は『女はみんなこうしたもの』と訳されますが、これは原題のイタリア語「tutte」が、女性系複数なのが理由のようです。男性形複数は「tutti」なのでもし原題が『Così fan tutti』だったら『男はみんなこうしたもの』となっていたでしょう。
「今だとこんなタイトルは炎上間違いなしですね」なんて、開演前の解説で語られていましたが、最後まで見たところ、元々の作者には、女だ男だなんて区別はしておらず、本当は『人間はみんなこうしたもの』というタイトルにしたかったんだろうなあ、などと思ってみたり。
単語に性別がある言語は大変だ。
舞台芸術を志す皆様に、心からの感謝を。
閑話休題。いやあ、面白かったです。
生の演奏、生の歌、生の演技。見る聞くにとどまらず、何か全身の全ての感覚が刺激され、脳だけでなくあらゆる部分で分からされている、そんな気分。
今まで経験していなかったのが悔しいなあ。
もっと若い頃から、色々観ていれば、どんなに豊かな人生が送れただろう……そう思ってパンフレットを見ていたら……
『フィガロの結婚』演るの? しかも……に、にせんえん?
学生の公演とはいえ、自分も素人だからなあ。演者と客とで切磋琢磨というのも、良かろうなあ……
オペラというのは、知識としては知っていたし、レコードで聞いた事もあったけれど、実際に体験して、これほど素敵なモノだとは……想像以上でした。
名古屋芸術大学の皆様、本当に素晴らしい舞台をありがとうございました。
ときのそらさんへ、限りない感謝を。
もうひとつ、全く縁がなかったオペラの世界に、自分を繋いでくれた、VTuberときのそらさんには、いくら感謝をしてもし足らないでしょう。
ときのそらさんは、就学前から音楽を初め、音楽系の短大を出られ、2017年からVTuberとして活動されている。いわば、VTuberという存在を創った人の一人。
上の配信では、音楽学校時代の様々な学びや体験を語られていました。
すごいなあとは思いましたが、なかなか具体的なイメージが浮かばなかった。しかし、音楽学校の学生の公演を観れば、また色々と「ときのそらさんもこんな感じだったのかなあ」などと、理解を深める事ができそう。
何と言っても、VTuber創世記からのレジェンドでもあるし、今回オペラに導かれたように、音楽への様々な扉を、開いてもらえそうでもあります。
これからは、ときのそらさんも推していこうかと……
いやそれでも、自分の最推しは儒烏風亭らでんさんですが。ええ、永遠に最押しは儒烏風亭らでんさんですとも!
自分は誠実ですから、絶対に推し変なんかしません!
誠実に、儒烏風亭らでんさんを推し続けます!
誠実に、でん同士の一人であり続けます!
……デスピーナってホント、いいキャラだなあ……