アーティゾン美術館『空間と作品』
アーティゾン美術館『空間と作品』展。
静嘉堂文庫美術館で
「茶道具はどんな名品も、それだけでは未完成。
茶席で使われて、初めて完成する」
みたいな、ちょっと過激な考えになったわけですが……
ひょっとして、次の予定が、このアーティゾン美術館だったから、無意識のうちにそうなったのかな?
この記事を書いている時は、もう終わっている展示ですが、見にいったのは企画展『空間と作品』展。
「作品を、それが展示される空間とともに鑑賞する」というコンセプト。
作品は、その置かれる場所を変えてしまう。
入場してすぐ、円空仏の部屋。
仏像はもちろん、祈りなくしては存在し得ない作品。
ともすれば朽木か廃材と見まがうような、円空仏となれば、なおさらだ。
自分が一番よく見る円空仏は、豊田市民芸館に常設展示されているもの。そこでも、そこそこの大きさの展示ケース内、山水を模した盆庭のようにしつらえた木材の上に、祈りを受けるように配されていた。
ここでは、子供ほどの背丈の円空仏が二体、広い部屋の中央に、背中合わせに立っていた。
照明が特に弱いわけではないはずなのに、色彩がない部屋は妙に薄暗く感じた。
ただ、円空仏の木肌の色と、一刀に断たれた凹凸に浮かぶクッキリとした陰影に、そこだけ光が射しているみたいだった。
ゆっくりと仏の周りを歩くと、ここがどこかの寺の中のように思われてきた。色のない空間は、灯のない堂宇の中、わずかに入る光の薄明かり。あるいは、森の中かな。光の薄さに苔も葉も色を見せない、そんな奥深く。
あえてモノクロームな大ぶりな空間を作って、仏像を前に浮かぶ想いを、映し出すスクリーンに仕立てる……いきなりこの企画の趣旨をわからせられた気分だ。
置かれる場所に溶け込んでいく作品もある。
続く部屋では、ピサロの描く四季の風景を、四方の壁に掛けて、中央には大きなテーブル。
大理石のような色の床に、赤いビロードのような壁の色。
円空仏が堂宇なら、ここはどこか、邸宅の食堂だろうか。
執事の抑えた足音やら、カトラリーをサービングする音でも聞こえてくればそれらしいのだけれど、ピサロの絵が面白くて、ちょっと部屋への注意はお留守になってしまった。
横長の画面で、春・夏・秋・冬と続き物になっている。ピサロは本当は、コレ全部つなげて、絵巻物にしたかったのかなあ。印象派だけど、いちばんのおじいちゃんだから、さすがにおだやかな絵だ。若手の才能と活力に刺激されながら、隠し切れない落ち着きっぷりが、見る者を安心させる。寛ぎと団欒の場にはふさわしいだろう。
ただ、その分押し出しが弱いから、美術館らしい「鑑賞しろオラァ!」という展示ではなくて、こういう部屋に飾る感じだと、邪魔にならないように引っ込んでしまうというか、なじみ過ぎるというか、壁か家具の一部になってしまうような……
サティの言う「家具の音楽」みたいなものかな。
場所が、作品と共に見る者を呑み込む。
ああ、こんな贅沢をしていいんだろうか。
たっぷりと広くとられた、何もない空間。
そこに、一枚のピカソと、一人の自分。それだけ。
この部屋の片隅には、この絵のオーナーだった人についての解説があった。彼は、いつでも好きな時にこんな気分を味わっていたのか。うらやましい。
正面の椅子に座って眺める。さっきのピサロとは正反対で、一枚の絵の存在感が、空間にどんどん広がっていって、この部屋を埋めてもまだ止まらない。見ている自分の中にまでしみ込んで来る。気が付けば、絵の中のサルタンバンクと同じポーズをとっていた。
別室に置くとか、その壁はその作品だけにするとか、特別な一品を飾る時は、見る者に特別な経験を味わわせようと、どんな美術館でも一工夫する。自分も何度も味わってきた。
SONPO美術館でゴッホの『ひまわり』を見た時とか、
三菱一号美術館でルドンの『グラン・ブーケ』を見た時とか。
でもコレはもう、二度と経験できるかどうか?
作品の意味を、場所が教える。
丸山応挙の『竹に狗子波に鴨図襖』。
美術館の一画に和室をしつらえて、しかもその畳の上に座って見る事ができる、という趣向。
背後には、障子風に格子のかかった照明が置かれるほどの徹底ぶり。
襖絵にしろ衝立にしろ、見る者は畳に座っている、という前提で描かれているんだから、まさに応挙が見せたかったのはこの形かと思う。
贅沢を言えば、前に誰か座っていてほしかった。調度なのだから、その前に人が行き来するところまで想定して、デザインされているはずだから。特に衝立なんて、リモート会議用の背景とか、VTuberの配信用背景と同じで、前に人が座る前提のものだ。
いや、だからこの展示、衝立じゃなくて襖にしたのかな?
襖なら、その部屋に自分以外に誰もいなくてもおかしくない。まるで、向こうの部屋にいる誰かを待っているみたい。
本当に、見ていると今にもスゥと襖があいて、誰か入ってきそうだ。でも誰が?
曽我蕭白の雲竜図襖だったら、こういう気分にはならない。
だってアレ、開けられる奴いないよな。触る事も怖い。
……襖絵には二種類あるのだろう。
この応挙みたいに、爽やかに澄んでいて、向こう側の空間を感じさせ、通り抜けることができる、ともすればそれを誘いさえする襖絵。
その反対に、蕭白の竜だの蘆雪の虎だの、ズッシリした存在感をもって、開ける事を拒否する絵。壁のない日本家屋で、襖を壁にするための絵だ。
畳の間をしつらえただけでも凄いのに……この展示には、この襖、この応挙じゃなくてはダメ、という……その結果、襖絵とは何か? なんてコトまで伝えてくる、とんでもなく練り込まれた展示だったわけだ。
いや、そもそも、この応挙の襖絵をどう展示するかを考えた結果が、コレだったのかな?
どちらにしても、貴重な経験をさせてもらいました。
人と作品と場所、その三つで完成する。
この先、作品がしつらえられた部屋がいくつか。
部屋ひとつひとつのあしらいも素敵なのだけれど、通り抜ける通路まで美しく仕上げられていて、抽象絵画を通り抜けるような感覚。
コレクターの室内を模した一画を一枚の絵画に例えるならば、奥にそれを望む通路は額縁かしら。
それぞれの一画に飾られる作品は、ピカソやセザンヌもあれば、三岸節子や佐伯祐三もあり、どれも地方の美術館なら、十分スタメンを狙えるレベルの作品ばかり。ただ大きさはどれも小さめで、部屋の雰囲気を喰ってしまわないサイズ。
陶器や彫刻の作品も、さりげなく置かれている。
家具も、モノによっては名のある美術家の作品だったりする。しかし「この椅子いいなースゲェなー」と思っても、無銘だったりするので、色々と油断ならない。
しかしそれも不思議な話ではある。
この空間自体を一つの作品として鑑賞するのであれば、飾られている絵や彫刻も、椅子や机も、ともすれば壁や天井の色や仕上げだって、その構成の一部として平等ではないか。
ともすれば、これらの品々をコーディネートして、適切に配置した人こそが、この空間という作品の作者だ。
そうなってくると、インスタレーションとの区別もあいまいになってくる。このへんはもっと勉強しないとな。
様々な品々を蒐集し、それによって心地よい空間を作るという活動は、人によっては生きる事そのものだ。
生活に密着した、工芸・民芸の展示では、品物をそれが使われていた状態で展示すること、それを使っていた生活の様子を再現することは、よくある事。
以前レポートを書いた、豊田市民芸館の『或る賞鑑家の眼・大久保裕司の蒐集品』展でも、大久保氏の居室を再現した巣スペースがあった。
自分の場所という作品を、どう作っていくのか?
作品を生かす場所として演出された美術館の一画は、確かに素晴らしかったのだけれど、あくまでそれは美術品のための空間だったように思う。
当然の話ではあるけど、生活感がないというか。その部屋に、自分なり、誰か人間が存在している感覚がつかめなかったというか……
いや、最初から作品のための空間なのだから、当たり前なんだけど。
一つ一つの作品と、自分や、自分の生きている場所との関係を、今一度考えなおすような展覧会だったと思う。
別に、立派な芸術作品である必要はない。推しの祭壇を作るのも、立派な創作活動だ。
自分の推しは、まだまだアイテム少ないので、祭壇はだいぶ先になりそうだけど。
展示作品はまだまだ沢山あったのだけど、今回の展覧会は展示手法がウリなので、それについての記事という事で。
青木繁とか藤田嗣治とか、ブランクーシとかルオーとか、個別の作者や作品については、また別の機会に。