【霊能探偵怪奇譚】空っぽになる少女・1
ギシリ、と家鳴りがした。
突然聞こえたその音は、古い家が軋むような不気味な音だった。
その家鳴りが始まって間もなく、誰もいないはずの二階の廊下から、まるで誰かが歩いているような音が聞こえてきた。
その音は、水に濡れた素足で歩いているようなピチャ、ピチャとした不快な音で、ゆっくりと廊下を進んでいるように聞こえた。
階下を目指し、一歩ずつ。確実に。
その足音が階段に近づくにつれ、階段を伝い冷気が降りてきた。
それは舞台演出のような人工的なものでは到底なく、もっとねっとりとまとわりつくような、重く不快な冷気だった。
真夏とは思えないほどの冷気が、背筋を凍らせた。
『なぁ、これ、まずいんじゃないか?』
どこからか少年のような声がする。その声は震え、緊張しているように聞こえた。
少年は息を殺し返答を待つ。しかし声を掛けられた主からの返答はなかった。
苛立ちを感じながら、少年は声を荒げた。
『おい瀬織、聞いてんのか?反応が強すぎるぞ!早く何とかしないとまた……』
言いかけたが、慌てて口をつぐんだ。
相手の耳には届かなかったのか、相変わらず返答はなかった。
過去の出来事が少年の頭をよぎり、最悪のシナリオが次々と浮かんでは消えていく。
出会ったばかりの頃の苦い思い出。
(あの時みたいになってしまう……)
思っていても声には出せなかった。
過去の傷を抉るような気もしたし、また同じことが起きてしまうような、そんな気がしたから。
この重苦しさも凍るほどの冷気も、あの時と似すぎていた。
ぐるぐると考えていると、瀬織と呼ばれた少女がようやく口を開いた。
「……聞いてた話と違う……」
ため息混じりにスマホの画面を見ると、時計は午前2時過ぎを示していた。
さっきまで繋がっていたのに、今は何故か圏外となっているスマホは、暗い家の中で瀬織の端正な顔を青白く浮かび上がらせた。
『圏外……?』
少年は息を呑んだ。外部との連絡手段が無くなったことで、さらに不安が増幅した。
「活性化するにも早すぎる……何か、見落としてる事は?資料、あったはず……。見つけないと……」
スマホを見つめたままうつむき、ブツブツと自問する瀬織をよそに、少年の心の焦りは加速していく。過去の失敗が蘇り、今回も同じ過ちを繰り返すのではないか、という恐怖が全身を駆け巡る。
『だめだ!もう降りてくる!!瀬織、早く!』
その叫びには、瀬織を何としても守らなければならないという必死の思いが溢れていた。
瀬織がはっと顔を上げると、階段を降りる足が見え始めていた。
青白く生気のない足。
ゆっくりと降りる。
ペチャリと水気を帯びた足音がする。
着物の裾が見えた。
着物は水に濡れ、雫を落としていた。
足は一段、また一段と降りてきている。
ペチャリ
ペチャリ……
『瀬織!!あいつを見るな!そのまますぐに玄関に走れ!!』
必死の叫びだった。それなのに。
「……ミタマ、ダメだ。もう、目が合ってしまっ!!」
ミタマと呼ばれた見えない少年は、水色の火の玉のように実体化した。
ミタマが階段を見やると、いつの間にか足音の主は顔が見えるほど降りてきていた。
美しい花の模様が入った着物から、それが女性だとわかった。
青白い顔に張り付いた長い髪の毛。その隙間から、瞳はただ瀬織を見ていた。
冷気はさらに濃く強くなっていた。
(瀬織がまた、空っぽになる……)
ミタマが恐れていたことが起きようとしていた。
青白い彼女と瀬織の目が合った瞬間。
瀬織の視界はざらざらとしたノイズだらけのものになった。古い白黒写真のような色の無い景色が、次々と入れ替わる。屋敷、暖炉のある部屋、男性、海岸、貝殻、子ども……。
瀬織は過去の経験を思い出していた。
このノイズが晴れると、私は……。
彼女の意識が急激に瀬織の意識を包む。ノイズが晴れた瞬間、瀬織は別の時代、別の場所にいた。
風景から察するに、そこは100年以上前の日本のようだった。
この時代にはまだ珍しいと思われる洋風の家。お屋敷と呼ぶに相応しい大きな家の窓ガラスには、濃い色のカーテンがつけられていた。
その傍らに佇む美しい着物を着た若い女性は、月明かりでより美しさを増していた。
女性にそっと近づき、優しく手を添える男性。手を引いて、暖かな暖炉の前へと連れて行き、そっとソファに座らせた。
優しさに満ちた幸せな風景。
他愛のない日常。
突如場面が切り替わる。
素敵な思い出となった結婚式。
華やかなドレスと花束。
その場にいる全員が笑顔だった。
また場面が切り替わる。
愛しい我が子の誕生。
小さな命。すくすくと育つ宝物。
走り回るようになると、近くの海辺で貝殻拾いをした。
次々と切り替わる思い出は、優しく幸せなものばかりだった。
はずなのに……
その幸福は長くは続かなかった。
弾けた暖炉の火が女性の顔に火傷を作ると、男の態度が一変したのだ。
彼はただれた彼女の顔を許さなかった。
男は美しいものだけを愛でるコレクターで、屋敷は美しい調度品で飾られていた。
彼女もその一つだったのか。
あの日以来、男は彼女をいないものとして扱った。
追い出されないだけマシだったのか、追い出された方がマシだったのか。
それでも我が子といられる事に幸せを感じていたのに……。
それさえも、踏み躙られた。
子どもが彼女そっくりに育つと、男は彼女から子どもを引き離した。
泣き叫ぶ我が子を強引に連れて行く。
必死に抵抗するも、後頭部を殴られなす術がなかった。
歪んだ景色の中、離れて行く我が子。
止められない自分が情けなかった。
彼女が目を覚ますと、そこは見知らぬ土地だった。
右も左も分からない。知っている人もいない。
最後の希望だった我が子もいない。
「なぜ……?私は何も悪くないのに。どうして私から全てを奪うの……?」
ふらふらと歩き出す彼女に、周りの人々は好奇の目を向けた。
誰も声をかけることはなかった。
どのくらい歩いたのか、彼女は浜辺にいた。
貝殻が月明かりに白く光っている。
我が子と拾った白い貝殻。まるで自分を呼んでいるかのように感じた。
着物の裾が濡れるのも構わず、彼女は貝殻を目指して歩いた。
『瀬織!!瀬織!!!……どうしよう……このままじゃ瀬織が本当に空っぽになる……』
現実世界では、ミタマが必死に瀬織を呼んでいた。その声は震え、激しい焦りと深い絶望、無力感が滲んでいた。
しかし、瀬織の耳にミタマの叫びは届かなかった。彼女は怨霊の過去の苦しみに深く沈んでいく。ミタマの目の前で、瀬織の意識が薄れていった。
彼女の意識が完全に怨霊に飲み込まれてしまうと、瀬織の体はここにあるのに、その中の瀬織はいなくなる。
瀬織が空っぽになってしまう。
時が刻一刻と過ぎていく。
『瀬織!お願いだ……戻ってこいよ……』
ミタマの願いも虚しく、瀬織の意識はどんどんと取り込まれていった。
ミタマは自分の無力さに打ちのめされ、絶望の中で瀬織の名を叫び続けた。その声は次第に弱々しくなり、やがて悲痛な呟きに変わった。
「どうすればいい……何もできない……瀬織を失うなんて……」
ミタマは全身の力が抜けていくのを感じた。瀬織を救えない自分への怒りと、彼女を失う恐怖が胸を締め付けた。
時間が過ぎるごとに、希望は砂のようにこぼれ落ちていった。