2人の悪魔 #14
その男に焦がれて
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
ハーゲルは治ったばかりの頭でそんなことを考えていた。男の住む雪山は基本的に他人が出入りすることはとんとなく、概ね1人か2人を除いては来訪者などないのが常であった。はず、なのだが。
「いや〜、お前のところにも人が来たら賑やかになるだろ?俺ってばやっさし〜!まあこれも快復祝いみたいなもんだよ」
「気でもおかしくなったのか?…ああいや、前からだな、すまない」
「やだ!ハーゲルったら俺に厳しくない!?!俺のことそんなに嫌いなの?この前はあんなに積極的に俺にしなだれかかって甘えてくれたのにっ」
きゅるん、と効果音がついてもおかしくないくらいのぶりっこ加減を発揮しながら巨躯を丸めてかわいこぶる男の視覚的ハートを片手で隅へ追いやる。
「……随分と仲良しですね」
「ハ?これがそう見えるんならアンタも相当だな」
「これは失礼を」
黒と青に包まれた見知らぬ男が大人しくアダムスの用意した席に座って茶を啜っている。というか、急に客が来たからと座らされ、当のアダムスはと言えばハーゲルとこの名前も知らぬ悪魔との間に座ってちまちまとちょっかいをかけてきているのだ。事の仔細など何もなく、だ。
「いい加減名前を名乗ったらどうなんだ、僕は君の名前も知らないんだが」
「ハハ、失礼しました。私はルキフェルと言います。こちらの籠が気になるようですが、これはただの私の特別なお気に入りですよ。そう怪訝な顔をなさらないでください。あなたに危害を加えるようなものではありませんので」
「……ルキフェル?ルキフェルと言ったか」
「?ええ」
ルキフェル。ハーゲルはその名前に心当たりがあった。
以前、フェニが己に謝罪をしに来た時に、あれがそのことについて相談をした相手が確かそんな名前だったような気がする。
「フェニが世話になっているというアレか?」
そうして炎の悪魔の話を持ち出せば、胡散臭い笑みが僅かながら解れて「ええ、お察しの通りかと」という答えが得られた。この男、こちらに対しては何も情報を開示する気がないようだと感じる。それならそれでいいのだ、面倒なことは無いに越したことはない。それに、きっとこの男が今後自らここへ訪れることはないのだろうし。
ハーゲルとルキフェルが無言で牽制しあって心なしか険悪な雰囲気が漂う中、ぱちんと軽い音が鳴り響く。
「や〜だも〜!俺が2人が仲良くなれたらいーなって思ってわざわざハーゲルのテリトリーに侵にゅ…来てあげたのに!こら!めっ!睨みつけないの!…ルーちゃんもそんな怖い顔しないの!……キャーーッ!美青年のガン付けは俺に効くからだめ!」
「可愛くねえよ、いい加減素に戻れ」
「それは本当、虫唾が走るよ」
「ちぇっ、2人ともノリ悪りィのな。もう少しにこやかにお喋りできねえの?俺がわざわざ上手いことセッティングしてやったのに」
そもそもそれが迷惑だしやってくれって頼んでないだろうが、と創造主である男の脛を机の下で思い切り蹴り飛ばす。
「冷たァ!おいお前ハーゲル!いい加減足癖悪いの直せよな!?俺が強いから何ともないだけで普通のやつ…フェニとかなら悶絶するんだからな!?!!」
「へえ、あいつには効くのか」
「ワァ…悪い顔してる…」
フェニに謝っとこ、とアダムスが空に祈りを捧げている間にハーゲルは向いにいる男に仕方なく話を振った。
「なぁ、おいアンタ」
「何か」
「…面倒そうな顔してるの丸わかり。早く帰りたいんだったらそう言えば?僕が何を言ったって無駄だろうけど、アンタがそれとなく彼に言えば飽きて退散するんじゃないの」
「そうしたいのは山々ですが…彼はきっとフェニがここへ来るまでこの場に居座るつもりだと思いますよ。見てくださいあの顔、あんなふざけた顔して…まともに取り合う気なんてさらさら無いんですよ」
「……クソ鳥頭がよ…」
その悪態が聞こえたのか、アダムスがくるっと振り返り、長く鋭利に尖った爪先でハーゲルの顎先をカリカリと引っ掻いた。
「だァれが鳥頭だって?言っていいコトと悪いコトがあんでしょーが」
「しーらねぇ、誰かさんが僕の許可も取らずにいきなり呼びつけて座らせたことを棚上げして言うような話じゃねえと思うしなァ」
「ハ〜〜??ハーゲルお前そんなに生意気な口叩いてさ、どうなってもいいってコト?」
席を立ったアダムスがじりじりとにじり寄ってくる。次第にハーゲルの体に大きな影ができていき、そのうちすっぽりとアダムスの体の影にハーゲルは隠れてしまった。ハーゲルが男を見上げると、その目は爛々と光っていて野生の獣が獲物を見つけた時に見せるそれに相違なかった。焚きつけすぎたなと内心で溜息をついた。こうなった以上多少引っかかれるくらいなら甘んじて受けてやるかと思ったその時、向かってきた指先がハーゲルに突き刺さることはなかった。
「っ、あっ……ぶな……、何やってるんですか坊ってば、そんな怖い顔して」
「エー!?嘘ォ、このタイミングで来んの?流石に調教されすぎてない?ハーゲルったら犬の躾がほんと〜に上手なんだから!もう俺やる気失っちゃうんだけど!」
「…え?え、俺なんかしましたか、えっと……ルキフェルまでここに…?どうして…?」
困惑を露わにするフェニに対してルキフェルは溜息をひとつだけ返したきりだった。何も聞くな、という意思の裏返しでもある。フェニは何も言わぬ男の気持ちを汲み取ってか知らずか、アダムスの方へ向き直る。フェニの掌は未だアダムスの拳を受け止めたままだ。
「離して、ギチギチ締め付けないで。そんなに俺のことをご主人様から守りたいの?トカゲちゃんは」
「え?あ、いや…危ない、かなって…それだけですよ」
「……へえ?」
アダムスの探るような視線がハーゲルに注がれるも、当のハーゲルはフェニを壁にするようにしてその視線から逃れた。
「ホラ、お望みの男も現れたんだし話は終わりでしょう、アンタも帰ってくださいよ。もう飽きてるんでしょうし」
「ハイハイわかったっての、いちゃいちゃしたいからって反応が露骨じゃない?お前そんなに愛情深い奴だったかよ?仲間にしか優しくしないんじゃなかったの」
「氷突っ込まれたくなかったら早く山降りてくれません?」
そこまで言えば、アダムスは肩で息をつくとルキフェルに「かえろーぜ」と声をかけては思ったよりもあっさりと雪山を後にした。
2人が山を降りていく後ろ姿を見ながら、「坊とルキフェルは何しにここへ?」とフェニが口を開く。
「さてな、僕が知りたいよ。…お前はどうしてここに?今日は来ないものと思ってたが」
「き、来たら駄目なのかよ…」
「……ハ、なんて顔してやがる」
ぺち、と下から男のしょげた頬面を軽く叩くと少しばかり目を細めて「ごめん」と謝罪を口にした。普段なら何で理由もなく謝ってんだと口を挟んでいるところだったが、結果として完璧なタイミングで自分を守った男に対しての追撃は野暮だと空気を読んだ。
「来い、褒美をやらねえとな」
「ほ、褒美なんて…俺今日は何もしてないと思うけど?ていうかさ、そう言うんなら手合わせしてくれよ、俺ようやく全力で戦えるくらいの体調になったんだし」
「……ちょっと止まってそこ立ってみろ」
不安げな表情を隠しもせずに大人しく言うことを聞く男の周りをくるくると回ってはじっとその体を観察する。確かにフェニが言う通り体調は万全らしい。
「まァ今日はいいだろ、手慰みでいいのか」
「ンー…正直物足りねえけどリハビリみたいなもんと思えば」
「ッハ、随分と贅沢な事が言えるようになったらしい。また川の中に沈めて死にそうな顔見つめてやるのも悪くねえかもな」
「いやっ……それは…ちょっ…と…」
「怯えすぎ」
そんなに僕が怖いのか?と笑って聞けばぽかんと惚けたような顔をして固まっている。張り合いがねえ、と脛を蹴飛ばしてやるとびたん!と派手な音を立てて冷たい白雪に巨大な人型の跡が形成される。
「……なンだよ、図星か?」
「何も言うな」
「………広ェ背中」
踏みやすそう、とそっと足を浮かせるとびくりと背中が震えて勢いよく人型が立ち上がった。
「チッつまんねえの」
「ナチュラルに踏もうとするな!俺を何だと思ってやがんだよ!」
「犬」
「………」
荒げた声に合わせて男の耳元の炎が勢いよく空へと噴き上がったのも束の間、すぐに風で吹かれたように風前の灯になった。
「……まぁ、いいんだけどさァ…」
何が"いい"のかはわからなかったが、虐げられる本人がそれでいいと思うならばいいのだろう、とハーゲルは1人思うことにした。
心なしか肩の落ちた男を開けた場所へ立たせ、手元に氷槍を召喚する。男の首元を傷つけてからというもの、全く出番のなかったそれは久方ぶりに手元へ帰ったとは思えないほどしっかりと馴染んでいて、いい調子だと思えた。
「いつでもいいぞ」
「わかった、よ!」
フェニに合図をすると、それとほぼ同時に距離を詰めてきて拳が顔面目掛けて飛んでくる。それを目と鼻の先で弾き返し、返しのついた槍先を男の赤く燃え立ち上る腕の羽根先へと向ける。こちらが何を狙っているのか一目で判別したのか、フェニは構えをすぐに変えてきた。羽の生えている方を下に向け、そう簡単には狙えないようにしている。さすがにそれくらいの脳はあるらしい。だが、けしてハーゲルが使う武器は槍だけではないと思い出させなければならない。
「槍ばっか見てんじゃねえよ、足元が留守だぞ」
「は、ックソ!……っ、痛ぇ、なァ!」
「喧嘩も頭使わねえと負けるぜ?今みたいに遊ばれて終わりだってこと覚えておかねえとな。お前は犬なりに覚えはいい方だし…失敗したらすぐ覚えられるだろ?」
優しさに感謝してくれてもいいんだが、と鼻で笑えば大きな舌打ちで返される。ハーゲルは槍ばかり見る男に対して、先の尖った氷の塊を本来狙っていた腕の羽根先目掛けて思い切り足元から上方面へと貫いたのである。ぼたぼたと垂れ落ちる透けた赤紫は薄青を帯びた雪面に溶けて鮮烈な紫の染みを作っている。ギリギリと歯を噛み締めながら痛みに悶絶する男の眉間には鱗が持ち上がるほどの皺が寄っている。どうやら刺さった場所が悪かったらしい。
「……悪いことしたな?」
「うるさい!悪いと思ってない時の謝罪ほど要らねえものはねえんだよ!!」
「ハハ、そうだろうな」
よくわかってやがる、とニコニコしていると唾を吐かれる。血の気の上ったこの男、本当に治安が悪い上に理性をすぐに飛ばしてしまう。もっと扇状的な立場で理性を飛ばして欲しいものだが、と垂れ落ちる血液を眺めながらぼんやりとそんなことを考える。
「クソ!今回こそ絶ッ対に先に俺が傷つけてやるって思ってたのに……!なんでこんなに初動が早いんだよ!どうしたらアンタくらい強くなれる、くそ、くそ、くそが…!」
「そりゃお前、僕がお前より強いからに決まってるだろ」
「いつか必ず這いつくばらせてやる…!」
「そりゃ楽しみだ」
そろそろ飽きてきたから終わりにしていいか?と軽く槍を振り回して問えば、またひとつフェニの額に青筋が浮かぶ。そんなに怒りを噴出してばかりいたら先に高血圧で死んでしまいそうだな、とひゅんひゅんと風を切る武器を手の内で弄びながら獲物の獲得時期を見定める。じっと見つめているとフェニの体の軸がふらりとブレる。そこを目掛けて槍を思い切り投擲した。以前エラを無惨にも引っ掻き回して破壊した氷槍の返しは、無情にも男の大腿中心に突き刺さった。その痛みは計り知れないもので、男は声なき声をあげて膝をついた。少しばかり待ってみたが、呻き声はすれど全く立ち上がる気配がないのでもう終わりかと男のそばへ歩み寄る。
「もう限界か?いいリハビリになってたら良いんだが」
「本当悪趣味だなアンタ……ッ、……く、ぅ…!」
「ハハ、哀れなことだ。学習しないお前が悪いんだからな?」
想像以上に深く突き刺さったらしく、近くで見ると槍先は太腿の中に隠れてしまっていた。それを一度肉の中へ突き刺してから引き抜く。抜き出した槍先はべっとりと赤紫に血塗られていて、血を取り去るためにくるくると軽く振れば、槍についていた血がフェニの頬や肩に飛び散った。
「………わざとだろ…」
「ハハ」
ぱっ、と氷槍をしまうと蹲っている男の顎先をぐいっと引っ掴んでこちらへ向かせる。青筋は浮かんだままで、深淵に灯る闘志の瞳は赤く炎のように燃え立ち上り続けていた。牙を剥き出して威嚇する様は獰猛な獣そのものとさえ思えてならなかったが、その剥き出しの敵意は間違いなく目の前のハーゲル自身に向けられていて、ハーゲルの心の中に確かに薄暗い気持ちを芽生えさせた。
「なんでなんだろうな、」
お前が恋しくて、愛おしくて堪らないんだよ。
「っ、な、何、して……」
戸惑いの声が聞こえる。それを構いもせずに、鼻筋に飛んだ赤紫に舌を這わせた。口の中に鉄錆の味が充満する。余すところなく舌を這わせれば、最初はやめろだとかなんだかごにょごにょ言っていた声も静かになり、ふるふると震えて耐えるだけになっていた。
「………ン、綺麗にしてやったからな」
感謝しろよ、と終いに額に口付ければ、何時か前に見た惚けた顔がまた己を待っていた。その腑抜けた顔すら愛してやりたくて、愛でてやりたくて仕方なくて。自分がここまで夢中にさせられるだなんて思いたくなくて。
「は?え?な、何?お前…本当、…何のつもりなんだよ?」
「ハハ」
その問いに対して教えてやる気もなく、乾いた笑いで誤魔化しながら困惑した表情の男をその場に置き去りにし、ハーゲルは今度こそ踵を返したのだった。
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