2人の悪魔 #6
刻まれた傷
フェニは全身氷漬けにされてからというもの、ハーゲルの目論見は大きく外れて懲りるどころか意気揚々と雪窟まで訪れるようになってしまっていた。
それも、口を開けば「鍛錬」「手合わせ」、だめだ嫌だ帰れと言えば「じゃあちょっとだけ」「なんでもいいから」「1回だけでいいから」と一歩も引く気配はない。
そんなフェニの様子にげんなりしながらも、適当に相手をしてやった方が意外と満足して帰る(時もある)ということに気づいてからは、比較的ふたつ返事で相手をしてやっていた。そんなある日。
「……なぁ、アンタってどんな武器で戦うの」
「武器?」
こう、と片手を振ればハーゲルの背や、振り上げた手の周りに氷の粒や破片がフェニの方を向いてゆっくりと浮遊しながら現れる。
「その硬そうな鱗もぶち抜くぞ、これは」
「いやいやいや!ぶち抜いて欲しいワケじゃないって!いや興味ないは嘘だけど!!!…ま、待ってハーゲル!ニコニコしてるアンタは怖いって……」
「ほう?」
そうじゃなくて、とフェニは軽く咳払いしながら「なんかないの、」と更に重ねた。
「俺は不器用だから武器使うより自分で戦った方が楽だし、直接相手を殴れるのが楽しいから拳とたまに炎使うけど。アンタはこう…見た目は!ひよわそうだから何か使ってんのかなって…」
「僕の噂を聞いた時に何か聞かなかったのか」
「?いや、全然」
「ふぅん」
一瞬何か考えるそぶりを見せたものの、ハーゲルがそれ以上何かを言うことはなかった。だがこれが逆にハーゲルがなにかしらの武器を用いて戦うことがあると示すも同然だった。
「俺とはその獲物で戦ってくんねえのかよぉ…」
未だに自分が遊ばれている自覚があるのもあって、焦れたような声が出てしまう。それに対しては「ハッ」と鼻で笑い飛ばした。
「お前にそんな価値ねえよ」
「ある!」
「うるせえガキが。僕は片腕振るだけでお前を地面に縫い付けることだって可能なんだからな、それを忘れるな」
「うぐ……」
彼の言う通り、最初に駄々をこねまくって猛反抗した結果ハーゲルの怒りに触れ、フェニは川の中に氷漬けにされるだけでは留まらずにどこぞの宗教図を思い起こさせるかのような水中ならぬ氷中磔の刑に遭っている。あの時のことを思い出すと気が遠くなる。息ができなかったら死んでしまうだろ?とニコニコ笑われながら吐息の熱でようやく溶けるくらいの薄い氷を水中に沈められた上から張られて本気で殺されるかもと思ったのを今でも鮮明に思い返せる。多分それからニコニコ笑う男を見るとなんとなく寒気を感じるようになった。
「まあでも…アレだな、地面にも埋めたし川にも沈めたし氷漬けにもしたし…井戸にも落としたし雪にも埋めたしな。そろそろ殴ってもいいか」
「ほんとか!?」
「………喜ぶなよ気持ち悪い」
そこでしゅんとしてしまうフェニに特大溜息が出てしまうのも致し方ない。一体なにがどう転んだらこんな馬鹿が育ってしまうのかと思うとため息が後を絶たない。
「まずは僕を座った状態から立たせられるかだろ?段階的に対応していくか…」
「それって暫くは鍛錬してくれるってことだろ?!」
「遊びだよ遊び。本気で戦ったら疲れるし…お前如きに本気出しても勿体ない。意味がない」
「な……なんで!なんでだよ!俺めちゃくちゃ強いし挑戦者だって後を絶たない!壊してみたいってヤツが沢山現れるんだぞ!?それに…っ、」
はっと口を閉じる。ハーゲルはしんと冷たい視線でフェニを見つめていた。なぜかそうしないといけない気がしてぺたんと尻を地面につけると、当然フェニよりもハーゲルの視点が上になる。
「…それで終わりか?」
「…………え」
「囀りが終わったんなら死ぬ覚悟は出来てるよな」
「え、えっ、どう…い、…う…!?」
チャキ、と首元に急激な冷気と鋭いものが掠る感覚を得て恐る恐る目線を下に逸らすと片手で握れそうな氷塊が今か今かと動脈を狙いすましたまま、くるくると回っていた。
「僕が本腰を入れて叩いて潰して打ちのめしたいのはあの湖畔を侵した人間の一族郎党だけだ。お前を含めて他の悪魔もそうだが…どうでもいいと思っているし今こうしてお前と話している間にもあの人間達が息をしていると思うと吐き気がして仕方ない」
こんなに饒舌に話すハーゲルの姿は初めて見る。けれどそれ以上に首が凍らされるんじゃないかと錯覚するくらいに冷気が冷え切ってきている気がするのだ。
「だから僕が万が一お前に剣を向けたとしてもそれは本気を出したからじゃないということを覚えておけ」
「………っ」
さっきまで1番知りたかったハーゲルの獲物の正体が話の流れでわかったというのに、全く喜べなかった。噂で彼があの湖畔を命がけで守っていて、土地を侵すものを一方的なまでの暴力で屠っているという話は聞いていたが、本気で怒らせるならそれが手っ取り早いと息巻いていた少し前の自分を今ならば全力でやめとけと言える。この男は必ず「徹底的にやり尽くして再起不能までに追い詰める」とわかるから。あのニコニコした顔の中の優しげな緑は笑っていなくて、己の死が約束された台の上に乗せられて、いつ心臓を突き刺さすのか考えているような視線が全身に浴びせられるのだ。
「………興が冷めた、帰れ。僕の目の前から姿を消せ。今すぐ」
ずるずると後ずさって、雪窟の入り口の縁に手のひらが触れた瞬間、普段は絶対にしない四つ足脱却で無我夢中に雪原を走る。初めて「戦いたい」と思う以外の感情をあの男に抱いた。あれは間違いなく「恐怖」と「畏怖」だった。同じ場にいて呼吸をすることも憚られるような感覚は初めてだった。
走って走って走り続けて、木々の青くさい香りが鼻の奥をつんと通り過ぎて行った頃にようやく足を止める。膝に手をついて立ち上がれば、いつもは使わない筋肉が悲鳴をあげている。紫肌を滑り落ちる汗がどれだけ夢中になって走り続けたかを証明している。汗を片手で拭いながら空を見上げると、燦々と陽の光が降り注いで額と下顎の下に薄く影を作る。目元にできた影の中で深淵を閉じる。フェニはかつて己の瞳に関して、暗闇の中で揺らめく炎のようだと他人に指摘されたことがある。それはフェニにとってはいつ思い出しても誇り高い魅力のひとつだと思っていた。だが、いつだったかその瞳が嫌いだとハーゲルに言われたのだ。
曰く、「あの日木々の悲痛な叫びの中でぱちぱちと嘲笑いながら彼らを焦がしていく赤を思い返すだけで憎悪でおかしくなりそうだ」と。
鳥の囀る声と、時たま羽ばたく音だけが森の中に響き渡る。時の許すまま、一時その場に立ち尽くす。鎖骨に何かが垂れた気がしてぐいっと拭う。そこにはどす黒い血液が拭った形のままうっすら付着していた。ハーゲルがフェニに放った氷塊はやはり掠るだけとはいかなかったようだった。切られた傷はそう深くない。きっと放っておいたら次期に塞がってしまう。フェニはおもむろに自身の長い爪先を、薄く開いた傷口に突き立てるようにして無理やり裂いた。途端に新鮮な血液が溢れ出して皮膚を滑り落ちながら容赦なく服を染めていくがそれには全く目もくれずに、新しく開いた傷口をさぞ大切なもののように優しくなぞった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?