2人の悪魔 #17
全て我が手中に
冷えた空気が朝の雪山に浸透する。昇ったばかりの朝日が白雪の肌を仄かに温めていく。そして薄橙の光の帯が青白い地面を横断していく。その様は毎日見ても飽きることなどなく、時を忘れたかのように見つめてしまう。
「……綺麗だろ」
「お、起こしたか」
「いや」
背を隠す金糸のような髪をさらりと片側の肩に束ねて避けると、晒された肩に手をつきハーゲルも洞の外を見つめる。
「全ての時が止まったように…静かで美しい」
こちらを見つめるフェニの視線を横顔に受けつつ、かつての冬の精霊はほぅと息をついた。その吐息はたちまち白い水蒸気となって空気中に消えていった。
視線は途切れることなく、熱を持ってハーゲルに注がれている。間近にある男の顔を躊躇いなく見つめるというのは中々勇気があるものだと思ったり思わなかったり。ハーゲル自身としては、こういった恋焦がれるような熱視線というものにはそこそこ慣れていたこともあり、その慣れの程度というのも己に向けられる視線の種類を大雑把に分けられるほどのものであった。
だからこそ、己に肘置きもとい腕置きにされている男の熱視線が少女たちがくすくすと笑みを溢しあいながら向ける愛くるしいものであることがわかっていた。
昨夜、ハーゲルは焦れに焦れた炎の悪魔に自らの意志で触れた。強請れ、縋れ、焦がれろと促した。その熱を抱えて燻らせるくらいなら今ここで爆ぜて粉々になってしまえばいいと脅した。どんなに情けない姿を晒したって、どんなに浅ましい姿を晒したって、どんなに醜い様を晒したっていい。そう言ってこの男が堕ちるように惑わせた。
まあ、結果的にそんなに丁寧にせずともこの男の本能の部分はすでにハーゲルの手中に収まっていたわけだが。あんなに熱烈に好意と戸惑いをぶつけられてしまっては、その期待や望みに応えてやらないというのも中々性に合わぬ。それも恐らくだが、純悪魔ではなく元が精霊であり、何かを守り慈しみ、望みに応えなければならない、ということが魂に刻みついていることが原因かもしれないのだが。
「…目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ」
見過ぎだ、と肩に置いていた手で視線を遮ると、悪い、と小さな呟きが聞こえた。
「身体の具合は」
「意外と…悪くない」
「地面で気絶していた癖にその程度の感想しか出てこないとは。さすがにその体躯に見合った能力を持っているらしいな」
「………?褒めて…ないな」
「ハ、そうだな」
以前のこの男なら褒められたと思ってその鱗顔に笑みを載せていたかもしれないが、今目の前にいる男はこちらの言った言葉をきちんと理解できるようになったらしい。
男の側を離れ、自分の椅子へと腰掛ける。フェニはまだ穴の外の景色をじっと見つめていた。その景色を脳裏に焼き付けようとしているようにも見えたし、ただ目を奪われているようにも見えた。そんな様子を肘をついてぼうっと見やる。避けた金糸の束は地平線をとっくに越した陽光を透かしながらきらきらと煌めいている。それは硬い雪の上を走る霜柱に陽光が反射して輝くそれと酷似していた。今も目を閉じれば、幼い仲間たちが湖面で遊ぶ楽しそうな声が聞こえてくるようだった。
「身体も休まっただろ、帰れ」
「え」
「なんだよ、そもそもお前が怪我の具合が悪いのに帰らせるなって駄々こねたから泊めてやっただけだろ」
「そっ……!その、割にはしっかりちょっかいかけてきたじゃねえか!!あんなことされちゃあ治るものも治らねえっての!!」
顔を真っ赤にして吠える男を完全に無視し、包帯の巻かれた大腿部に容赦なく手刀を落とす。
「ッ、ぁ、ぐぅ……!まだ痛ぇっての!!余計な事すんな、悪化したらどうしてくれんだ」
「いや、そんだけ叫べるならさぞかし傷の治りも早いんだろうなと思ったんだが」
「それとこれとは話が違う!」
「そうかよ」
その身に宿すは不死鳥の炎だとアダムスの野郎に聞いていたから、普通の悪魔よりは再生速度も速いんじゃと思ったのだがそういうわけではないらしい。
なんだつまらんと興味を削がれ、こくりと飲み込んだ唾の絡み具合と喉のうっすらとした渇きに背を押されるようにして立ち上がる。
「は、ハーゲル」
「なんだ」
後ろを振り返らずに適当な返事をする。
「お前は俺の何がほしいんだ…?」
あまりに予想外の質問に思わず振り返る。
「は?」
「お前が欲しい、って昨日の夜…アンタ言っただろ。心臓が欲しいのかと思ったけどそうじゃないって言うし…」
「お前の何、ねえ…」
どう言ったものだろうか。
脳裏でひとまずあれやこれや考えつつ、根元を氷で固めた植物を氷の容器から取り出し、フェニの元へと戻り男の肌に根元を近づける。すると、根元を締め付けていた氷はたちまち男の体温で溶けて消えてゆく。全てが溶け切る前に植物の根を口に含んでじゅうと吸うと、閉じ込められた新鮮な生気が喉の奥を潤した。
「俺にやれるもんならアンタにやる、けど…その。強者が弱者に求めるものは大概渡さなきゃならねえだろ。俺はアンタが何を欲しがってるか知らないし…」
「ほーう?つまりお前は名実共に僕に負けたことを認めるってことか」
生気を吸われ切って萎びた花をぽいと放り捨てると、未だ地べたに座り込んでいる男の前に膝をついた。こうしてしまうとこちらを見つめる男の炎がかあっと己の頬を焼く。
「あんだけ『お前に勝つ』だの『跪かせてやる』だの、『屈辱を思い知らせてやる』だの言ってたのにまあ……殊勝なことで」
逆に、全てにおいて力を重視する考え方だからか、この相手には勝てないと察して仕舞えばそれ以上己の身を削られぬように自衛する手段として早期降伏を口にできるのかもしれない。そうでなければこの実力主義、弱肉強食の男が自ら負けを口にすることなど考えられない。
「わ、忘れてくれ…!」
「嫌だね。それと今のお前に何を言っても無駄だろうから、僕がお前に要求するのは『僕にとって都合の良い駒』になることだ」
「駒…」
「駒が嫌なら犬でもいいが」
「駒で上等!!」
「当然だが僕に絶対服従、口答えは許さない」
「う」
「鍛錬しろって来るのもやめろ」
「……うう…」
「返事は」
「わかったよ………」
心なしか獣耳がへたれて見える。そんなに鍛錬が好きか。まあそうか。小さな声ながらも了承の返事を得ると、男の首筋のエラに爪をカリカリと引っ掛ける。
「お前の身体も、能力も、お前という全てが僕のものだ。髪の毛1本、血液1滴たりも無駄にするな、いいな」
「や、破ったら…?」
「そんなありもしないこと考えてどうする」
「い、いや!俺結構外で騙されてアンタに世話になったりしてるし…転ばされたり…怪我、したりとかしたらどうすんのかなって……「へえ?」ひぇ…」
怖ぇ顔してる、とか細い餓鬼みたいな声で喉奥から微かな呻きが聞こえるものの、聞かなかったふりをする。あれだけ痛めつけられておいて、わざわざ罰の方を心配するとは。
「なーるほどなぁ、フェニお前、よほど僕にいじめられたくてたまらないらしいな?」
「は、はァ!?」
「仕方ない奴、お前みたいな面倒な男を手にかけてやれるのなんて僕だけだろうに…」
「え、えー……?ハーゲル、その、目、怖い……なぁ…って……」
「じゃあ雪道に光が落ちきるまでの間にお前がいかに僕に触れられたくてたまらないのかじっっっっっくり教えてやるよ」
俺早まったかなぁ…と小声で呟くのを聞きながらハ、と満足そうな息をつく。そして男の耳元に氷の口付けを贈ったのだった。今はまだ、その身が誰に支配されているのか骨の髄まで染み渡らせればいいことにしよう。それから煮るなり焼くなり好きに調理すればいい。この男はもう、この手に堕ちたのだから。そう結論づけたハーゲルの口元に笑みが浮かんでいたのは、当人はもちろんのこと、彼に組み敷かれた男すら知る由もないことであった。
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