2人の悪魔 #5
雪原の訪問者
「……謝礼?」
怪訝な顔をせざるを得なかった。あの発情事件以降全く姿を見せておらず、さすがに応えるだろと思っていたのだが、狩りの帰りに声をかけられた。曰く、あの日の謝礼がしたいと。
「何されたかちゃんとわかってんのか?」
「わ、わかってるっての!だからこうして…アンタの手を煩わせたから…謝ろうと思って…」
「ふぅん」
巨躯を丸めてぼそぼそとそんなことを殊勝にも言うので、それくらいの常識はあったのかと思った。だが、それも一瞬のことであった。
「だから!お礼に俺と鍛錬して欲しくて!」
「は?」
「?」
「いや何訳わかんねえ顔してんだよ、それは僕が持つべき疑問だろうが」
何もわかっていやしねえ、と片手間に男の腕に大人しく畳まれている翼の根元を凍らせてやる。
「こんなでけえ体持て余して年配の手を煩わせた礼が鍛錬だァ?それはなんというか図々しくねえか。というか、僕がお前に鍛錬をしてやる謂れも所以もねえ」
「え!俺と鍛錬したいって言うやつ後断たねえからいいんだと思ってた、間違いなのか…?」
その言葉にクソ長重苦しいため息をつく。誰かこの男に一般常識を全て詰め込んでからこの世に生み落としてくれないだろうか。それができないならこんな巨躯で産み落とすな。責任ってものを知らねえのか。
「さすが脳味噌の端から端まで筋肉でできてるだけあるな、喧嘩のことしか頭にねえのか」
「まあ、うん」
「褒めてねえ。帰れ」
そんなのを礼とは言わねえ、と足元を氷で転ばせてから背中を蹴り飛ばして寝床から放り出す。ぶべ!と情けない声をあげて雪面に真正面から倒れ込んだのは中々に見ものであったが、そのままなかなか立ち上がれずにばたばたしているので、どうやら一部氷結化しているようで場所が悪かったなと意地の悪い笑みがこぼれる。
「アンタ!今!笑っただろ!」
「ああ」
「くそ……!絶対にアンタに手合わせしてもらうからな!今日は帰るけど!そのクソみてえなツラ絶対歪ませてやるから!」
「威勢がいいのは結構だが…そこにずっといると張り付いて後が面倒だぞ」
「えっ」
男の体温は悪魔にしては高く、氷に触れている面は溶けたらすぐに固まっていく。普通は溶けっぱなしなのだが、この土地の氷がすぐに再生するのはハーゲルの能力の影響でもある。あれ、張り付いたら剥がすの難しいんだよなと思いながらさっさと男のそばを離れた。
***
翌日、再び寝床の前に男が座っていた。
「鍛「帰れ」…まだなんも言ってない」
「言っただろうが。お前が言うことなんかあれやってこれやって鍛錬してしかねえだろ」
「むぐ………」
「家の前に座ってられると面倒なんだよ、朝っぱらから余計な顔見ると士気が下がる」
「だ、だって…」
まだ何かあるのかと額にかかる髪を掻き上げたあたりで「アンタ、あの湖に近づくと機嫌悪いから…」と聞こえてぴたりと動きが止まった。
「…あっそ」
それくらいはわかるのか、と再び男を値踏みの秤にかける。ここのところ関わる機会が増えてから思うこととしては、思考や知識力は幼児そのものと言っても差し支えないが、それなりに相手の表情を見る力はあるというか。むしろそこしか利点がないのではないだろうか。
「アンタ、他の悪魔と違って2拠点生活だろ。…いや、俺にあんまり長期的に付き合いがある奴がいないから一概にはそうと言えないんだけど…あの湖に俺が行くの嫌がってるみたいだったから、早い時間ならこっちに行くのがいいのかなって」
「はぁ……」
男は自分よりも2倍近い上背でありながら、今の今まで目線はハーゲルよりも下にある。最初に年配に敬意を払えと言ったことを覚えているのかどうかは知らないが、首を痛めた記憶はない。
じっとその闇に沈む炎を覗き込むように見つめれば、びくりと像のように動かなくなる。心なしか冷や汗をかいているように思える。男の透けるような白金の髪の下にしっとりとした紫が見えている。優しげな髪を守るようにも、冠のようにも見える2対の角と、時折ぴくぴくと緊張を示す獣の耳は見ていて実に飽きない。こうも装飾の多い悪魔は力の誇示か、単にその能力の高さゆえ表出するものであるかの2択が多いが、この男に限っては間違いなく後者であることが身体パーツを切り取って分析するだけでもわかる。下顎を囲む角に被さるような獣耳の下からはパチパチと微かに音を立てながら燃える炎がちらちらと垣間見えている。この雪原地帯においては、炎の赤は迷い込んだ人間の格好の灯りであるし、それ以上に見るものに温かみを感じさせる。この男の情を勘繰るほどには。
きつく結ばれた幾重もの結び髪が肩やら背中やらに細く垂れている。後ろ姿ばかりを見ていたからか、頸を隠すように伸びた太めの三つ編みが本筋かと思っていたのだが、それ以外にも何本か細い三つ編みが首元や鎖骨にうっすら影を作っていた。
「…….あ、の。あんまりじっと見られると…」
「うるせえ、黙ってろ」
「はい……」
体から自然に立ち昇っている冷気に触れたのか、声を荒げることもなく大人しく姿勢を正した。何か余計なことを言うたびに体を凍らされていたらこうも従順になるのか、と少しだけ男の扱い方を学ぶ。まさに体で覚えるのだなと。
「…手合わせねえ、何がそんなに楽しいんだか」
「そいつのいいとこもやなとこも拳を交えた一瞬でわかるのが面白いだろ」
「……」
答えを求めた呟きではなかったのだが、当の本人からはそのような返事が返ってきた。
「ここにいても湖の番と狩りくらいしかやることねえのは退屈と見られてもしょうがねえか…」
ふ、と視線を外に向ける。それに気づいて男もハーゲルの視線の先を向く。そこには小さな川が流れている。ハーゲルの寝床である雪窟は谷の麓にあり、目の前には川と人目を遮る森が広がっているのだが、川も小さいとは言えこの大男が大の字で寝転がったところでまだ両端に余りができるほどの幅はあるのだ。
「…そこの川の中に座れ」
「つ、つめた「鍛錬」…!わかった!」
そんなに騙されやすくて大丈夫かと何回めかの呆れからくるため息をついたかというところで、男は大人しく服の裾が濡れるのも厭わずに膝を畳んで清流の真っ只中に座り込んだ。
その様子を見届けて、一歩、また一歩と歩を進めて男に近づく。川の淵に立つか立つまいかというところですっと腕を一振りした。途端、水面が派手な音を立てて凍りついた。男を締め上げるような形でぎっちりと。それはもう身じろぎしたら氷が肌を傷つけるのが本能で理解できるくらいに。
「そこから無事に出られたらまた次も適当に相手してやるよ」
「こんなの、簡単にっ…!?」
隙間から片腕を出した瞬間、バキバキとすばやく片腕の埋まっていた箇所が再び凍りついた。目を見張る速度で、あまりの出来事に体が動かなくなってしまっているのではないかと笑えてしまうくらいの驚き具合だった。
「簡単な訳あるか。ここは僕のテリトリーだからな、氷やら雪やら水やらは元々僕の能力下にあるんだよ」
「おい…待て、おいってば…!」
「無傷で出られるといいなァ」
そのあとも何度も再氷結の音が静かな森の中に響き渡ったが、陽が落ちたあたりでしんと静かになった。ちょっと様子みるかと首を伸ばして下を見れば、ほぼ全身出てはいるものの、力尽きたのか湖面で爆睡している男の姿が確認できた。凍死されたら外まで運ぶのが面倒なんだがと思いつつ、時折身じろぎをしているのを確かめると、よいせと寝床に引っ込んだ。
「……ま、朝日が出る頃には帰ってるだろ」
勝手にそういうことにして、その日は早めに就寝した。その日の翌朝、雪窟の入り口に葉に包まれた川魚がいくつか供えられているのだが、それをハーゲルが見つけるのはまだまだあとの話である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?