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2人の悪魔 #1


熱は冷めやらぬ



湖畔の悪魔と通り名がつく頃、当の本人であるハーゲルは大人しく能力の鍛錬をしていた。悪魔としての力ではなく、今なお失われかけている、土地を守護する力の方である。悪魔に身を堕としたならば、きっと守護の力は失われると腹を括っていたのだが、悪魔となってからもこの荒廃した土地に居続けたにも関わらず、土地はまるで時を止めたかのようにそれ以上酷い有様になることはなかった。

かつては触れれば草木の優しい囁きが聞こえたものだが、今はなんの応えも得られない。だが、時間はかかるものの丹念に世話をすればするほど湖畔は徐々に元の清廉さを取り戻そうとしていた。その証拠として、焼き尽くした頃には澱んだ泥水と悪臭の漂っていた湖畔は、今ではその見る影なく薄青に透き通っている。見ているだけで冷たくなりそうな手を水の中へ差し入れてかき混ぜると、その流れに沿って渦ができ、また静かにその湖面を震わせた。

「…ーーー様」

掠れた声では耳まで届かない。闇に堕ちてしまった若草の双眸は慈しむように湖面を撫でる。
長く手をつけていると、湖面がパキパキと音を立てて手を中心にして凍っていく。名残惜しそうに湖面から遠のけば、またじわじわと雪が溶けてゆく。
一息とも嘆息とも取れない息をつくと、膝に手を当ててゆっくりと立ち上がる。人間の書籍か何かで見た緩く身を纏うような衣服はこの身によく馴染んだ。精霊だった頃の服をそのまま適当に仕立て直したものだが、元々雪の眷属であることから寒さを感じないこの身では着る物を選ばなかった。多少暑さに弱いという欠点はあれど、それを自己の都合でいくらでも歪めることはできる。だからこそ、その欠点ですら悪とは思わなかった。

裾を翻して大木の枝によじ登って腰を落ち着ける。ここ何年かはお気に入りの定位置になっていた。組んだ足を無防備に晒しながらぼおっと森の外の風景を眺める。すると、あることに気がついた。何かの塊が高速で湖畔に向かって転がってきている。木々の隙間からでは時折その姿を見せるのみで、転がるものの正体は依然として掴めない。が、あの異様な速度は人間ではないと確信した。であればあれは同じ悪魔だ。
折角登ったばかりの腰掛けから降り、「"霙よ"」と呼びかける。すると曇天の中に僅かに光が差していたそこが急速に雪雲が立ち込めていき、あっという間に霙と雹が降り落ち始めた。粒は次第にその大きさを大きくしていき、ハーゲルの姿をかき消していった。

「誰にも侵させないとも、…そう、」

若草は暗く冷たくその視線を尖らせた。

***

湖畔へ向かう途中、いきなり天候が悪くなったかと思うと凍えるほどの霙に襲われた。

「なっ…!なんなんだよ!さっきまで晴れてたじゃねえか!」

雪粒は重く、元が水とは思えないほど肌に絡み付いては剥がれない。雪粒のぶつかった箇所は凍傷になったように赤くなってヒリヒリとその痛みを訴える。

「クソ…!なんなんだよ、怪奇現象にも程があるっつの…!」

無造作に雪粒をはたき落としながら目的地へと向かう。悪態をつきながら辿り着いた先では、湖畔の際から生えた雪柳の根を撫でる1人の男の姿があった。容赦なく降りしきる霙の中で、男の薄青い髪と肌がちらちらとまばらに映る。目の錯覚なのかと見紛うほどの光景であったが、白の中で静かに瞬く若草がじっとこちらを冷たく捉えていた。

「湖畔の悪魔ってアンタか?オレ、アンタにボコボコにされた他の悪魔から強いって聞いて喧嘩売りに来たんだケド。アンタの大事なもんなの?ここ」

男はその問いには答えず、デコピンするようなジェスチャーをした。それにひどく苛立ち、反射的に手を出す。普段なら耳や肩を引きちぎるほどの腕力を振るえるはずの腕はなぜか男の手の中でぴたりと動きを止めており、引くことも押すこともできやしない。氷にじかで触れているのかと思うくらいの冷たさより痛みを感じて「離せ!おい!」と喚くことしかできない。なんなのだ。こんな感情は抱いたことがない。焦り、憤り、不安、興奮。ばき、と硬い音がしたかと思うとたちまち目の前で腕が凍りついていく。

「ふ、爬虫類の腕にはさぞ痛く苦しいだろう?人間ならとっくに死んでいるが」
「何笑ってンだ性悪野郎!さっさと放しやがれ!こうなったら1発喰らわしてやらねえと割に合わねえって!」
「はーん」

よく言う、と男はその薄い唇に笑みを乗せる。

「まあ、少なくとも今日じゃないだろうな」
「は」
「また下準備してから来い、寒さ対策もな」

子ども扱いするなと吠えれば、無言で腕を指さされる。渋々指先を見れば、鱗と羽の生え側が霜焼けのようにただれて見るだけでも痛々しい有様になっていた。

「………うっ……わぁ………」
「そういうわけだからまた来い。暇だったら相手してやる」
「お前絶対友達いないだろ」
「余計なお世話だ」

友達より返して欲しいものならあるさ、という言葉は自嘲したかのように聞こえた。なんとなく引っ掛かりを感じたものの、なんと声をかけるべきか、そもそも初対面の男に何を言ったものかと我に返り、開きかけた口をそのまま閉じた。

「ほら、迷子の小鬼は住処に帰んな」
「誰が小鬼だ」
「僕はお前より何百年も年上だが?年上に敬語くらい使わねえか」
「ハ!?じゃあ若作りしてるってことじゃねえか!」
「たわけが、悪魔に若作りもクソもあるか」
「ぐっ……」

口喧嘩もまだまだなら黙って歩けと両腕を凍らされたまま、湖畔の入り口へ足蹴にされる。おとなしい見た目のくせしてかなり足癖も口も悪い。ただひとつ誤算があった。しょうもないくらい顔が非常〜〜〜〜に好みだったのである。どうしようもない。
今すぐ存在を無かったことにして泣き喚いて命乞いされるくらい尊厳をずたずたに引き裂いてやりたくてたまらないのに、同じくらいその手で虐げてほしいと思ってしまった。

屈辱だった。屈辱を塗りたくられているにも関わらず、戦闘を好むこの体が興奮していることを顕著に教えてくれる。

「またな、炎の子」

言い返そうと振り返った時にはすでに男の姿はなく、そこにあるのはしとしとと降りしきる細雪だけだった。


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