ラスト・シーン
あの日、美しく変わってゆく彼女を追いかけることができなかった自分。
すこしほろ苦いストーリーです
DUST IN THE WIND
1981年
少し汗ばむくらいの4月の午後。空は快晴で濃いブルーだった。
車の運転席のドアを開けた。むっとする熱気が立ちのぼった。八重桜の花びらが一枚、少し開けておいた窓から車の助手席のシートの上に入り込んでいた。助手席の窓のハンドルをくるくるとまわして全開にして車の中へ風をいれた。露天のカーポートに置いてあった、赤い79年型アコードは、ほこりでくすんでしまっていた。
多摩川を渡る橋の上は、強い風が吹いていた。橋の向こう側の信号がまた赤になったのが見えた。あの信号が見えてから4回目の赤だった。窓は閉め切っていた。日差しのせいで車の中のエアコンはまるできかない。FMラジオからは3年前に流行った、カンサスの Dust In The Wind が流れていた。
「すべては風の中に、か。」
河原のグラウンドでは土埃をあげてユニフォーム姿の少年たちが野球をしていた。
国道246号線に入ると、道は意外なほど空いていた。片側4車線の左端のレーンは駐車車両が連なって埋め尽くされていた。表参道から外苑の入り口まで、歩道の人通りが途切れることがなかった。女性たちの白いブラウスがとても眩しかった。
青山一丁目の交差点で左折して、すぐの駐車場に車を停めた。(ここへ来るときは、いつも、麗子と一緒だった。)ふうっと一回ためいきをついて、汗ばんだBOLTのポロシャツのボタンをはずして、車のキーを抜いて外に出た。
午後3時の太陽は、すこし歳をとったかのように優しくなっていた。
カフェピアザのテラスの席で、青山一丁目交差点の向こう側の六本木方面の黄昏ゆく風景を、しばらく見ていた。左手の方には赤坂離宮の森のむこうにニューオータニが見えた。すこし、涼しくなってきていた。柔らかな春の夕暮れの風は心地良かった。ジンジャエールのクラシュドアイスは、待っていた時間を物語るかのように殆ど融けてしまっていた。
彼女は階段を上ってくると、眼を細めて各テーブルを見渡した。
僕を見つけると、少しぎこちなく微笑み、そして言った。
「久しぶり。思ったより元気そう。」
麗子は会社での出来事を、昔より早口で話してくれた。僕は適当に相づちを打って、差し障りのない質問をした。
「3ヶ月ぶりだけど、こうしていると前とちっとも変わっていないわ。」
話しの中で彼女は何回かほんとうに懐かしそうにそう言った。
「見た目は変わっていなくても、心の中まではそうとは限らない。」
席を立ったとき、彼女にそう告げた。彼女は、
「そう…。」
合意とも疑問ともとれる言い方で返事をすると、
「今日はごちそうさま。わざわざ来てくれてありがとう。」
と笑顔で言って、さよならとは言わずに階段を駆け降り、地下鉄銀座線の入り口に消えていった。
見上げると空は究極のダークブルーだった。歩道の人影も少なくなっていた。駐車場の車のドアを開けると助手席のシートの上にしおれて丸まった八重桜の花びらが落ちていた。
春の夜の風が暖かく優しく車の中を吹き抜けて、花びらはどこかへ行ってしまった。
光る海
1978年
大学3年生の夏休みのことだった。たまたま、元ヨット部の友人が彼の叔父から入手したヤマハのシーホッパーという一枚帆の小型ヨット(僕達はディンギーと呼んでいたが)の置き場がないということで、僕の家で預かることになった。庭が広く空いていたのでそこにブロックを置いて、船をさかさまにして置いておくことにした。
その前の年、僕は体育の授業でヨットを選択して2週間毎日乗っていたので、操作方法や海の上での基本的ルールは知っていた。
2週間後の8月10日の木曜日に、友人が朝早く、箱型スカイラインGTで訪れた。スキーキャリアにディンギーを乗せて、ロープでずれないように念入りに固定し、三浦半島の三戸へ向かった。綱島街道から横浜新道を通り、鎌倉の裏を通って葉山に出た。海岸沿いから一度離れて、御崎口駅のそばからふたたび海岸の方へ降りていった。
二人で船を車から降ろすのは乗せるのよりも大変な作業だった。おそらく本来は規制があるのだろうが、人気の少ない、海水浴場の端を選んで砂浜の波打ち際で儀装の作業をおこなった。ディンギーの組み立ては至って簡単で、マストにメインセールを差込み、風見をつけ、ブームを取り付け、シートを通して、船体に立てて差し込む。アンカーとパドルを船首にほうり込んで、舵を取り付けて、引いてゆく波に乗せるようにして僕達の白い船は進水した。
セールに風をはらませないで、ばたばたとシバーさせたまま、少し水深のあるところまでパドリングし、センターボードを差込んだ。操船に慣れている友人が最初に舵を取った。かすかなさざなみを立てて、風が沖からわたってきた。彼はメインシートを引き、セールは風をつかんだ。
向かい風に45度の角度でクローズホールドで船体を傾けながら上ってゆく。ヒール(傾き)をつぶすため、通称がんばりロープをつかんで、船体から大きく身体を外にだしてバランスを取った。背中に波しぶきを勢いよく浴びながら、ディンギーは(本来ひとり乗りなのだが)二人を乗せて快調に走っていった。
何度かジグザグにタッキングして向かい風をのぼってゆくと、いつのまにかかなり沖まで出てきていた。そこには海上からの高さが2メートルはありそうな、大型船の航路を示すブイがゆるやかな波に揺れていた。その上にたくさんのカモメが羽根を休めていた。海の色は浜辺のそれとは違って、濃い緑色だった。
来るときとは逆に追い手の風を受けて浜辺に向かってディンギーを走らせた。追い風のときは実際にはスピードが出ていても、波も風と一緒に移動しているため、体感速度はゆっくりと感じた。
海水浴客の居るそばまで戻ってくると、エアマットにつかまって泳いでいる僕達と同じ年頃の女の子達3人が手を振っていた。友人はセールを引く手を緩めた。
「おにいさーん、ヨット乗せてよ!」
いちばん元気のよさそうな娘が、僕達にむかって叫んだ。その娘の隣で笑っていたのが麗子だった。
午後の太陽にさざなみがきらきらと光りながら、風を運んできた。
夏の終わり・秋のはじまり
1979年
麗子は短大英文科の2年になり、僕は大学4年になっていた。
彼女の学生最後の夏、一度だけ一緒に海に行った。東金から九十九里へ抜けて、波乗り道路を走った。海水浴場に着いても、日に焼けるから、と水着にもならず、花柄のサンドレスのまま彼女はずっと日陰にいた。僕はひとりで水着になり波に飛び込んでいったものの、外房の波は高く、泳ぐことは難しかった。海から上がってタオルで身体を拭いていたら、つめたく冷えた瓶のコーラを、彼女は渡してくれた。海水に焼けた喉に、コーラの刺激はきびしかった。
「そんなに日に焼けて、子供みたいだわ。」
去年は君だってきれいに小麦色に焼けていた…。
ココナツの匂いのハワイアントロピックをもう1度肩から腕に塗った。
「もう、ヨットに乗せてとは言わないんだろうね?」
僕達は海岸道路128号線を南に向かってドライブすることにした。カーステレオからはサーファーの間で流行っていた、カラパナの曲が流れていた。勝浦有料道路にはいった。最後の右カーブはまるでブルーの海に飛び込んでいくように思えた。
館山を廻り、内房の127号線にはいると日はかなり傾いて、助手席側から金色の海が見えた。彼女は何も言わずに僕の左肩に右の頬をあずけるように寄りかかってきた。少し開けた窓から入ってくる風に、彼女の髪はなびいて揺れた。
この年の秋は、彼女は紺のスーツを着て商社を中心に会社訪問をしていた。僕は4年になってすぐ、はやばやと工学部の大学院へ進むことを決めていたため、他の学生のように就職活動はしていなかった。
「一般常識の問題をだして。」
「今年の先進国首脳会議は何処でやったでしょうか?」
「と・う・き・ょ・う。ホストは大平首相。そんな簡単な問題じゃなくて、もう少しまともな問題だして。」
「商社にはいって何やるんだ?。」
「そんな、面接みたいな質問じゃなくって。もう、いいわ。」
(これは、想定問答じゃなくて僕の質問だったんだけど…。)
カフェピアザの表にでると、高い空に、ほうきで掃いた跡のような筋状の雲が、西風にゆっくりと移動していた。西の雲のむこうに、夏の眩しさをなくした太陽が隠れていった。
「ローヒールだけど、やっとこういう靴に慣れてきたのよ。」
足元を見ながら彼女はそう呟いた。
ふたりで同じ景色を見て、同じように感動することはもうないのだろうか、と、そのときふと思った。
素顔のままで
1980年5月
彼女の勤めている竹橋にある商社のそばの、スタンダードジャズをバックに食事とカクテルの取れるパブで待ち合わせをした。
僕は大学2年生の授業のティーチングアシスタント(補助講師)をやった後、車で竹橋まで来て、オフィス街の立体駐車場に車を入れた。
スローなギターの伴奏でテナーサックスが I Can't Get Started という曲を奏でていた。
しばらくカウンターで待っていると、ドアを開けて彼女が入ってきた。白いブラウスにロベルタのスカーフ、ネイビーのタイトスカート姿だった。きめの細かい肌にファンデーションがきれいにのって、唇はローズピンクの口紅で花びらのように奇麗だった。
「ごめん。待った?。急に帰り際に仕事頼まれて、遅くなっちゃたの。」
僕達はテーブルの方へ移った。僕は飲み掛けのカクテルを自分で運んだ。
「何飲んでるの?」
「フローズンダイキリ。ヘミングウェイがこれを飲むと氷河の急斜面を直滑降する気分になれるといったやつさ。ほんとかどうか知らないけど。」
「あなたらしいわ。今日は初めてのお給料もらった後だから、私がごちそうしてあげるわ。」
「ありがとう。」
僕はラザニアとベーコンサラダ、彼女はバジリコのパスタとバイオレットフィズを頼んだ。
「ところで秘書課でどんな仕事をしているの?。」
「そうね、重役のアポとか、お客様にお茶を出したり。それ以外は、コンピュータの端末でデータインプットしているわ。朝、会社へ行ってね、端末から、オハヨウ、っていうメッセージを打つのよ。」
「ふうん。」
いまだに、FORTRANをパンチカードに打ち込んでいた僕にはピンとこなかったが。
「商社のOLって面白いかい?。」
「自分の仕事よりも、まわりで海外のプラントのプロジェクトとかで、数百億の仕事をしているでしょう?。そういうを見ているだけですごい仕事をするところにいるんだって思うわ。」
「そう…。」
「そうそう、ところで今度の秋、僕の卒論が学会で発表になるんだ。」
「テーマはなんていうんだったっけ?。何回聞いても覚えられないわ。」「無人搬送の自動制御モデルのシミュレーション。」
「ふうん。きっとまた忘れてしまうわ。」
「そうだ、来年の3月21日に、うちの姉が結婚することに決まったの。式は霊南坂教会で挙げるの。」
「アメリカ大使館の裏の、あのときどき芸能人が挙式するところ?。」
「そう。知ってる?。教会の式は祝福する人なら、誰が出席しても構わないのよ。」
「そうだ。今年の冬はスキーに1度も行けなかったから、今度の冬はまたみんなで志賀へ行こうよ。」
「そうね。行くとすれば、お正月休みね。」
「かならずだよ。」
「いいわ。かならず。ねえ、ごちそうするんだから、もっと飲んで。」
「今日は車で来たから…。帰りは家まで送ってゆくよ。」
「ありがとう。でも10時に友達から電話があるから。渋滞すると遅くなっちゃうし。いいわ、地下鉄で帰るから。」
「そう…。」
「それじゃ、私、そろそろ帰るわ。あなたも、気をつけて帰ってね。」
彼女は席を立つと、伝票を取ってキャッシャーに行った。僕も遅れて席を立って外に出たところで手を振って別れた。
酔いを醒ますため、お堀端をひとりで少し歩いた。ほてった頬を夜風がすこしづつ冷ましてくれた。立体駐車場のゴンドラから車を出すとき、エンジンをかけたらビリージョエルの Just The Way You Are が流れてきた。
<話せる人が欲しいだけです。ありのままの姿でほしい ....>
(麗子と一緒に聞きたかったよ。)
窓のあかりもまばらになった、夜の内堀通りを横浜方面へ帰った。
教会にて
1981年3月21日
空は厚い雲に覆われていた。
ずっと忘れていたのだが、今日は麗子の姉の結婚式の日だったことをふと思い出した。
彼女とは正月休み、(結局)日帰りで苗場へ行って以来、たまに電話をするだけで、お互いに都合がつかず会っていなかった。
(教会の式は、誰が出席しても構わないのよ。)
という彼女の言葉を思い出した。
僕はあわててダークスーツを出して、めったに締めたことのないネクタイをしめ、車にとびのった。時刻を聞いていなかったが、11時頃までに行けばまにあうだろう。まだ、1時間半ある。
都内へ入ると一般道はどこも渋滞していた。教会へは11時30分に着いた。タイヤをならして駐車場へ車を入れると、後部座席に置いておいた途中の花屋で買った薔薇の花束をつかんで、正面の入り口に急いだ。
その時、教会の鐘が打ち鳴らされた。まさに、今、華やかな人々が両開きの扉からあふれ出てくるところだった。その中に、落ち着いたブラウンのドレスにブーケを付けた彼女を見つけた。
しかし……。
彼女はフォーマルスーツを着た男性に軽く背中を抱かれて、ハンカチを握りしめて、時々彼の胸に顔をうずめて泣いているのだった。
僕は反射的に花束を後ろ手に隠して、誰にも気づかれないように駐車場の方へ戻っていった。
彼女を抱き留めていた彼の肩からは自信がみなぎっていた。
(会社の同僚だろうか?。…確かに彼女は誰が出席してもいいと言っていた。)
僕は花束を助手席に放り込んで、車をスタートさせた。
いつもは五反田から中原街道で帰るのだが、飯倉のランプから首都高環状線内回りにのって浜崎橋から羽田方面分岐を通って横羽線を南下した。途中で雨が降ってきた。ドゥービーブラザーズのテープは What A Fool Believesという曲になっていた。
横浜公園で高速を降りて、一度麗子と来たことのある、本牧埠頭へ向かった。くすんだ壁の色の倉庫街から港の岸壁へ抜けた。
小雨の中、車を降りて花束をつかむと、海へ思い切り投げた。
雨混じりの風に花びらを散らしながら、花束は黒い水面に消えていった。
4月も終わりに近くなったある夜、麗子から久しぶりの電話があった。
「スキーに行ってから、ずっと会えなかったけど、今度の土曜日3時頃青山のあの店で会わない?。」
「…ああ、いいよ。先に行って待ってるよ。」
「なんか、元気がないみたい。どこか具合でも悪いの?。」
「いや、別に。それじゃ、その時。」
電話が切れたとき、わずかに繋がっていた彼女への気持ちも一緒に切れてしまったような気がした。
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