絆 (きずな)
義弟が抱いているある疑惑。
おそらく自分は真相を知っている。そんなときあなたならどうする?
1998年の東京の物語です。
1.小春日和の日曜日
「このところ修ちゃんの様子がおかしいんだって。」
久美子は長い電話を切った後、紅茶を入れながら、日曜の午後の再放送のテレビ番組を見ている元樹にそう言った。
「修司君が?今のは多恵ちゃんからの電話?」
長い電話に多少非難も込めてソファに横になりながら元樹は返事をかえした。
「うん。…このところ帰りが遅いし、ほとんど夕食は外で食べてくるみたいで、家では食べないんだって。」
紅茶のポットとティーカップを小さいお盆に載せて、久美子はソファの前に持ってきた。
「家に帰ってくるだけいいじゃん。」
「もうふざけないで。多恵かなり困ってるみたいなんだから。」
元樹は紅茶にレモンを入れた。
「オンナ?なのか。」
「そうかもしれない…で、相談なんだけど、あなたにさりげなく話を聞いて欲しいっていうのよ。」
「え?僕に?いやだな、そういうの。もう子供じゃないんだから、あまり僕たちが介入するのは良くないんじゃない?」
元樹は寝そべっていた姿勢から、座り直した。
「元樹さん、めんどくさいんでしょ?」
図星だった。世の中にはこういったトラブルに首を突っ込むのを無上の喜びとしている人々もいるようだったが、元樹は大の苦手としていた。
元樹は新人ロックバンドのレコーディングの仕事が一段落着いたところで、久々にのんびりとしていたところだった。
今日は11月の日曜日で息子の悠太はリトルリーグの練習ででかけており、冬まで残り少ないのどかな小春日和を何もしないで過ごしていたかったのだ。
「修司君は?日曜なのに出かけているの?」
「ちょっと、本屋行ってくるって、出かけているらしい。子供達2人も相手してもらえずにつまらないみたい。」
「そりゃあ、そうだよなあ。上の麻衣ちゃんが6歳で、下の和樹が3歳だもんね。…で、どうやって切り出せばいいんだよ。」
「それを考えて欲しいんじゃない!」
「自転車で上石神井まで行って、尾行でもするかい?」
元樹と久美子夫妻の住んでいる杉並区の善福寺からは、修司の家のある練馬の上石神井まではすぐそばだった。
「それも一つの方法だけど…。男同士の話し合いってやつよくテレビでやってるじゃない。ああいう風にできないかなあ?中村雅俊みたいに。」
「あのねえ、あれは定型のつまらない台本に沿って演じてるだけなの。」
とは言ったものの、元樹は姪と甥の寂しそうな顔を想像しすると、腕組みをして方策を考えざるを得ないのであった。
2.遺伝子
「仕事はうまくいってる?」
(こまったな、こういうのがいやでサラリーマンにならなかったのにな)
元樹と修司は西武新宿駅そばの居酒屋にいた。
「え、ええ。まあ。」
修司は新聞の折り込みチラシ専門の広告宣伝会社に勤めていた。とはいっても営業部門ではなく制作の方をやっていて、やはり元樹と同様に話し下手であった。
(会話がはずまない。ビールがはずんでゆくよ。何か共通の話題はないか・・・)
「そういえば、このあいだね、インディーズ系から出てきたバンドをしばらく特訓して、いきなりアルバム録音したんですよ。まあ、曲を選ぶのが結構大変でね。大体最近はこれという特徴があっても一本調子でね…。」
「はあ。そうです・・・ね。」
(こりゃあいかん。こっちの話題にゃ乗ってこないや。ずばり女の話題を振ってみるか。)
「昔流行った失楽園のビデオをこの間初めて見たんだけど、ああはいかないよねえ。」
「そうですね。」
「しかし、黒木瞳が隣でうっとりしていたら、すべてを忘れるだろうね。」
「ええ。」
(あれ、心ここにあらずって感じだな。オンナがいるなら反応があると見たんだけど…。)
3本目のビールを開けて一息ついた。
(子供のはなしにするか。)
「今シーズン、やっと悠太がリトルでレギュラーのポジション取れたんですよ。11月いっぱいでそれも終わっちゃうんだけどね。中学で続けるか、迷ってるところみたいでね。…和樹も小さいときからやらせたらいいよ。」
「和樹も、野球は好きですよ。」
元樹は(はじめて会話がかみ合った)と感じた。しかし英語で話をしているような塩梅だな、とも感じていた。
「麻衣は…麻衣はどうなるんでしょうね?」
初めて修司から問い掛けてきた。
「どうなるって?」
「似てないと思いませんか?僕には。」
修司はそれまでそらしていた視線を元樹にまっすぐ向けた。そして、続けた。
「義兄さんにも言うか迷ったんだけど…。実は先日ふとしたことで僕の母方の祖父母ともにAB型だったことがわかったんですよ。
母はA型で父はAB型。僕はA型で多恵がB型でしょう?」
小さなグラスに半分残ったビールを一気にあけて、修司はため息をついた。
「そして、麻衣はB型で和樹はAB型なんです。」
彼が何を言わんとしているのかは、薄々わかったものの瞬時には意味していることは分からなかった。
「ちょっと待ってよ。A型とB型の父母からはすべての血液型が生まれる可能性があるんじゃないの?」
やはりB型の久美子とA型の元樹のあいだにはO型の悠太がいた。子供が生まれるときに若干は気にしていた記憶がすこしもどってきた。
「いや、僕の血にはOが入ってないから、ありえないんです。」
そのとき、この7年間というものまったく記憶から消えていた、ある場面が元樹の頭の中に鮮明に蘇ってきた。
3.記憶の断片
7年前の3月の日曜日に元樹は八王子の久美子の実家に来ていた。
当時、まだ久美子の妹の多恵は結婚しておらず、実家に住んでいた。
元樹が車に置いてあった悠太のおもちゃを取りに玄関へ出ていったときに、玄関脇の階段の途中でコードレスホンで話している多恵の声が聞こえてしまったのだった。
「そう、できちゃった結婚ってやつ。でもね、ほんとはどっちの子かわかんないんだ。」
元樹はそのときは、本人のことかどうかもわからなかったので、特に気にも留めずにいた。
その1ヶ月後、急遽、多恵の結婚の日取りが決まり、5月の初めに修司との結婚式が取り行なわれた。
そのときのことは元樹は忘れもしない。グアムでクルーザーを借りてカジキを狙うツアーを有志で計画し、お金も振り込んだ後に、同じ日曜日に多恵たちの挙式ということになって、泣く泣く他の人に譲ったといういきさつが有ったためだった。
今、新宿の居酒屋で、落ち葉の堆積の中から昔なくした物が突然見つかったように、記憶の断片がはっきりとよみがえってきたのだった。
(そうか、そういうことだったのか…しかし、とはいえこの事を言うわけにもいかないし…)
元樹はまるで自分が何か悪いことでもしたかのように心拍数があがり、緊張感を無理に和らげようと、突然お絞りでテーブルを拭くという不自然な動きをしたりしていた。
「すみません、突然こんな事言って。でも、誰かに話さずにいられなくて。まだ、誰にも言ってないんです。」
「そりゃあ、言わない方がいいよ。」
元樹は自分にも言い聞かせていた。
「お義兄さんはご存知かどうか知りませんが、最近、DNA鑑定が簡単にできるそうなんですよ。」
「え?DNA鑑定って、あの米国大統領の不適切な関係の、あれ?」
「頬の内側の細胞を使って比較するらしいんですが、かなり正確に本当の親子かどうかわかるらしいんです。」
「え、まさか修司君それをやろうっていうんじゃ…」
「18万円くらいだって事なのですが、どう思いますか?」
元樹はあまりにも思いつめた修司の表情に、どう応えていいものか判断がつきかねた。
「うーん。…ただ、その細胞をどうやって取るのかわからないけど、本人、麻衣ちゃんだって何をやるのか不審に思うんじゃないかな…。そう、仮にやったとして、それでやっぱり本当の親子だったってことでも、疑った、という事実は消せないから…。」
(これは、やっかいなことになってきた。真実を知っているのは俺と多恵ちゃんだけか?麻衣には何としても悟られたくないし。)
「ともかく、まあ今日は悩みを打ち明けた、ということで、飲もう。」
元樹は答えにならない結論で、今日のところを切り抜けるのが精一杯だった。
4.シミュレーション
さて、元樹が困ったのは今後の対処法だった。
初めは気が進まない計画ではあったのだが、実は自分こそが鍵を握っていたということになれば、放っておくわけにもいかなくなっていた。
「ほんとはどっちの子かわかんないんだ。」
という多恵のセリフから、当時、多恵は修司とは別の男性とも付き合っていたということなのだろう。
まず、これを姉である久美子に確かめるべきだろうか?
しかし、質問したら最後、察しのいい久美子のことだからすべてを読み取られてしまうかもしれない。そうすれば、自分を信頼してくれた修司に対して申し訳が立たなくなるように元樹には思えた。
また、性格からして多恵を問い詰めることは確実である。
多恵に直接聞くのはどうだろうか?
確かにこのところの修司の不審な行動については説明がつくが、彼女が秘密にしていることをまさか元樹にまで知られているということがわかって、なおかつそれが修司の態度の原因と知ったら、多恵は別の重い十字架を背負ってしまうのではないだろうか?
元樹は自分にはそんな宣告はとてもできない、と思った。
一方、修司に対して何かアクションをとらないと、おそらく彼はDNA鑑定を申し込み、麻衣の頬の内側の粘膜をこすりとるだろう。これは、何としても避けてやりたかった。
それこそ、麻衣は自分とは血がつながっているわけではなかったが、とてもかわいらしく賢い子だった。その幼心に傷痕を残すことだけは回避しなければならない。
かといって、「ほんとはどっちの子かわかんないんだ。」と多恵が言っていたことについては、口が裂けても言うことはできない。これは墓場まで持って行くつもりだった。
誰にも真実を告げずにこの難問を解かなければならないとうことで、元樹は仕事が一段落ついた折角の休暇を部屋に閉じこもって、買い換えたばかりのMacの前で椅子に座って腕組みをして半日過ごしていた。久美子には、『修司君は何も白状しなかった』と告げてあったので、こちらが怪しい行動をとりつづけるわけにもゆかない。
夕日も傾き始めたころ、元樹は一つの方向性を見出していた。
(そうだ、例え麻衣が修司君の子であったにせよ、なかったにせよ、多恵ちゃんはもうひとりの男を選ばずに、修司君を選んだことは事実なんだ。多恵ちゃんが一緒になりたいと思ったのは修司君だったんだ。そこまで思ってくれた多恵ちゃんに対して、感謝こそすれ、決して恨みに思ったりしてはいけない。そして、麻衣にしてみれば、生まれたときから修司君が父親で、それは血がつながっているかどうかより大切なことなんじゃないか?
なんとか、この方向で修司君を説得してみよう…。)
5.夕闇のベイル
何日かの後、元樹は今度は雰囲気を変えるために、スタジオミュージシャンの友人がやっている赤坂のパブで修司と待ち合わせた。修司の方も何か話したいことがあるようだった。
久美子には、前回は何もわからなかったので、もう一度修司君と話をしてみる、ということにしてあった。
午後4時過ぎには地下鉄千代田線赤坂駅の外は晩(おそ)い秋の夕闇がビルの谷間の空を覆いつつあった。足元の石畳には木枯らしに落ち葉が舞っていた。
元樹が少し早めに来たのは、話す内容をまとめておきたかったからだった。
路地を曲がったところの “WE ARE OPEN!” と書かれた看板の店に入ると、中で髭面長髪の江戸川が暇そうにリュートの曲を聞いていた。
「きょうは少し込み入った話をしなきゃならないんでね、ちょっと奥貸して。」
「とりあえず、何飲む?」
「これだけ冷えるとビールって感じじゃないね、とりあえず、ジャックダニエルだ。」
江戸川はしばらくすると、氷とタンブラーとジャックダニエルを持ってきた。
「何かいつにない緊張感があるね。なに?女の子と待ち合わせ?」
きれいなグリーンのクロスの上においたキャンドルにライターで火をつけながら江戸川が尋ねた。
「あいにく、そうじゃないんだな。・・・ちょっと作戦立てるから・・・。」
「ああ、邪魔しないよ、ここんとこ不景気で暇だからゆっくりしてけよ。」
江戸川はそういうとすっかり太ってしまった巨体を揺らしながらカウンターの向こうへ消えていった。
(さあ、どう切り出そうか。何か話したそうだったから、きっとDNA鑑定のことだろうな。諦めさせるには・・・やっぱり、情熱を持って説得するしかないかな?)
蝋燭の炎に輝く氷を見つめながら元樹は使命感に燃え大脳を活発に回転させて、先日の夕方思い付いた台詞を反芻していた。
(…麻衣にしてみれば、生まれたときから修司が父親で、それは血がつながっているかどうかより大切なことなんじゃないか…なんじゃないか、と下げ調子で言った方が説得力が有るかな?うーんこれは難しい。なにか高校の学園祭の演劇部の芝居のようになってしまいそうだな。ま、でもドラマのような展開だから芝居がかるのも仕方ないか・・・。)
そして6時過ぎに修司は現れた。冷えた外気で暗い店内でも頬が紅く染まっているように見えた。
(…大切なことなんじゃないか・・・よーしOKだ。)
元樹は心の準備を整えて、きわめて快活に呼びかけた。「こっちだよ。修司君」
すると、思いがけず修司は、
「こんばんは。義兄さん。」
と元気よく返事をして、にこやかな顔で近づいてきた。
(あれ?)
元樹が木製の椅子に腰掛けながら、修司の様子を意外に感じていると
「いやいや、この間は失礼しました。とんだ告白をしてしまいまして。いや、実は間違いだったんですよ。」と、修司は照れたような笑いを見せた。
「間違いって何が?」
「先日祖母が、亡くなったおじいさんもAB型だったって言ってたものですから、つい真に受けて先走りしちゃったんですけど、あれは勘違いだったんです。」
「え?勘違い?だって?」
「母に聞いたら、『おかしいねえ、亡くなる前に手術したとき、兄弟では私からしか輸血しなかったよ』っていうんですよ。で、入院時の書類を探したら、祖父の血液型はA型ってなってました。」
「っていうことは?」
「そうなんです。僕にはおそらく母方の祖父からのO型の血がはいっていて、それならB型の麻衣が生まれてもなんの不思議もないってことになるんですよ。」
元樹はすこし絶句した。練習した台詞以外、今晩話す内容を考えていなかったせいでもあった。
「義兄さん、この間のことはまさか義姉さんにも話していないと思うけど、絶対に秘密にしていてくださいよ。それこそ家から追い出されちゃいますから。」
何がそんなにうれしいのか愉快そうに笑うと、修司はタンブラーにジャックダニエルを注ぎ、勝手に乾杯をした。
(それは、本当のことかもしれないし、やはり違うのかもしれない。)
自分自身の中でこの数日間に起こった誰にも言えないドラマは、またいつかの多恵の台詞のように記憶のかなたに消えて行くのだろうかと、ぷつりと切れた緊張の中で元樹は考えていた。
その一方で、もしかしたらこれが修司が考えてきた最高の演技ではないのかと、先ほどまでの自分を思い出して、冷静に修司の笑顔を見つめなおしたのであった。
(おわり)