出ない杭は埋もれる

インドでは、屋台のご飯、メトロの切符、荷物検査、あらゆるところで並んでいる途中横入りをされる。人が一人が入れるか入れないかそのぐらいの隙間でさえ、するっと何食わぬ顔で横入りをして来る。

したがって、行列に並ぶときは、バスケットボールのディフェンスさながら前のひとをぴったりマークするか、他の人を手や腕、自分の体を使って制さなければならない。極めて面倒くさい。

そして、とりあえず言っとけ、やっとけみたいな精神がある。もの一つ買うにしろ、リキシャに乗るにしろ、とりあえずむちゃくちゃ高い値段で言ってくる。一緒に働いてても、無茶な要求を何食わぬ顔で言ってくる。そんなやりとりが日常茶飯事である。

先の順番抜かしの時も、注意をするとあっさり引き下がるが、注意をしない限り順番を抜かし続け、ひょいひょいと前に進み続ける。当たって砕けろの体現者みたい。

日本は「出る杭は打たれる」という言葉があるくらい、謙遜が美とされてきた印象がある。みんなで仲良く、同じ共同体、同じ言語圏、同じ民族、同じ宗教(無宗教の人も多いが)の中のひとりとしての意識がそのようなものを生み出してきたのだろう。

でもインドではそんなものは通用しない。日本で生まれ育った身からすると、ううっ、、、となってしまうぐらいぐいぐいくる。それもそのはず、この国は言語も宗教も何もかもばらばらである。(ヒンディー語が公用語だが、ごく一部でしか話されていない)しかも人口がとてつもなく多い。そのような中では、ぼーっとしていたらその波に飲まれてしまう。

 

まさに

 

「出ない杭は埋もれる」

 

状態が常なのである。そんな環境で育ったことを考えれば、先にあげた順番抜かしや、言っとけやっとけも納得がいくかもしれない。というか自分はこれで納得した。

また、インドで最もポピュラーな宗教であるヒンドゥー教もこうした国民性に一役買っている気がする。ヒンドゥー教は宇宙の根本原理・万物の本体である「ブラフマン」と、自我の本質「アートマン」との一致に達する事を理想と掲げる。

つまり宇宙対自分の世界である。世界は自分で自分は世界みたいな感じだろうか。日本でいえば「自己中心的」と非難されるかもしれないが、インドではこれが当たり前のものとして身についている。

たしかに、街中の口論なんか人の話を遮って、自分の話をばーっと話すし、クルマの運転だって我先にと追い抜き追い抜かれを繰り返す。例を挙げればきりがない。でも、その逆に自分の主張をはっきり伝え、それが筋さえ通っていれば、多少無茶な要求でもあっさり通ってしまう。自己主張が強い分それがみんなにも浸透してるからか、他己主張にも寛容なのである。

順番抜かしも、「みんな並んでいるから」抜かすな。「隣の店ではこの値段で売ってたから」値段を下げろ。「これが今すぐ必要だから」売ってくれ、買ってきてくれ。どれもこれも論理的に筋道が立っていれば、言い換えると、本人たちが納得いけば、大抵受け入れてくれる。だから遠慮せずにいったもん勝ちなのだ。インド人ほど陰湿という言葉が似合わない人たちはいないかもしれない。それぐらい裏表なくストレートに、かつ論理的に表現をかましてくる。

インド人に伝わらない日本語ランキング第一位はまちがいなく「何となく」だと思う。行間を読むなんて行為は皆無である。常になぜ、どうしてが彼らの行動を決めるキーワードになるのだ。この上なく明瞭なコミュニケーションである。

インドでしばらく生活したが、この日本人の感覚とのギャップを埋めるのには苦労した。ただ、自己主張が強いだけでは先ほど挙げたように「自己中心的」でおわってしまう。実際、なんてわがままなんだと最初は思っていた。

しかし、そこに他己主張を論理的に受け入れることを加えることで初めて、彼らと同じような感覚で生活ができるのである。出ない杭は埋もれていくが、出る杭同士は尊重し合う。これに気づいてから、この国での生活が一歩踏み込んだものになった。

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