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無敵感

先日、めでたく26歳となり、20代も折り返し、後半に差し掛かった。10代のころは、人は20歳で何かが終わってあとはもう死んだように生きていくんだと割と本気で思ってたりもしていたが、20歳が近づくとまあ25歳まではアディショナルタイムみたいなものでと、誰に言われたでもない期限を頭の中で先延ばししていた。でも残念ながら25歳もふんわりと終わってしまい、いやあやっぱり30歳までは終わらないでしょうとか自分を甘やかしたりしている。今ここの地点。

不思議と歳をとることに焦りはない。死という物理的な終わりには着実に近づいているという事実に、目を背け、同時にそれを直視し絶望しながらも日々を展開できている。同時に、歳を重ねて変に器用になった実感もある。ロジカルシンキングなんて狡猾なものが、自分の中で幅を利かせ過ぎて、何もかも因果関係と損得勘定で生きるようになってしまったようでもある。大きい成功もないけれども大きな失敗も特にない。ある程度予見された世界で予見された成果のもとで、日々を溶かしている。もともとそんなに器用でもないのだけれども。

一体何が終わることになるのかはわからない。”何か”が一つのものなのか複数あるのか、抽象的なものなのか具体的なものなのかもわからない。ただ”何か”は確実に終わりを迎えていると感じる。 

その一つが”無敵感”だと思う。

10代のころ(とくくるのは好きではないが)は”無敵感”というものが自分の中で幅を利かせていた。無根拠の自信。ひとつ鮮明に覚えているのは、高校生の時にバンドの真似事を突然始めたことである。特に目立たなかった自分がピアノのドの位置もわからないぐらいの素養で、ステージで全校生徒を前にして演奏なんかしちゃって、すごく下手くそだったし、右も左もわからなかったけれども、当時はなぜか絶対にうまくいくと信じていた。なんというか無敵だった。失敗するイメージがまったく湧かなかった。

26歳になった自分はどうだろうか。様々なスキルが増えて、できることが増えているのに、なぜか不安ばかりが募っていく。それをまた理論や知識で武装しても、所詮は張りぼての壁でしかないので、ちょっとした衝撃で、すぐに崩壊していく。修復作業に夢中なので、ある程度予見された世界の中から抜け出せなくなっている。これではゲームは進まない。無敵感なんてもってのほかだ。どうしてこうなってしまった。

結局のところ、無敵感がなくなったのは、自身の想像の範疇に収まるところでしか戦わなくなったからなのかもしれない。自分の想像の範疇が大きくなり、知識や経験が増え、変に賢くなったせいか、いろんなことを考えてから進んでいくようになった。偉大な進歩だ。しかし、それは時に不安や制限という形で足を引っ張ってくる。余計なことを考える。余計なことに気をとられる。もうすこし先に進めたのにゲームオーバーを恐れ過ぎて、タイムオーバーになる。

高校生のときにあったのは、”なぜかわからないけどやりたい”という初期衝動だけだ。一体どんなものが見えるのか、何が起こるのか全くわからないのだから、思考の根拠も立てようがない。余計なことを考えることすらできない。そんな初期衝動を土台に無根拠の自信がむくむくと成長して無敵モードへと突入していく。多分そんな感じ。そこに理論はまるでない。

人生において、あと何回無敵モードに入ることができるだろうか。初期衝動が消え去ったわけではない26歳の青年と、ビビってんじゃねーよと罵る無敵の少年。

自身の想像力が到底及ばないようなところで、20代後半の自分の駒を進めていきたいと思う。

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