コミュニティースクールについて思うこと
現在の教育を語るときに「複雑化した課題、多様化した課題」と枕詞のように付くが、それを聞くたび馬鹿にしてるのかと思う。
なぜなら、「それらの問題を解決するためにコミュニティースクールが必要だ。」「ギガスクールが必要だ。」などと、恥ずかしくもなく言えるからだ。無自覚、無知にもほどがある。
例えば、町田で起きた小学生の自殺。あれは学校から支給されたタブレットによるいじめの結果だ。表面化しない新しい複雑化された新しいタイプのいじめ。タブレットの保守点検、故障対応。地域学校協働担当の渉外は激務。
それら新しい問題の製造装置が、(自覚がない)文部科学省だから始末がない。文部科学省が検討もせず馬鹿な政策をするから、教育が複雑化し、多様化した課題を生む。
コミュニティースクールなどは馬鹿馬鹿しい。校長の異動サイクルが早いから、それに目をつけた統一教会が作った制度でしょ。工作員が選ばれれば、校長より任期が長いので教育は思いのまま。代々、統一教会大臣が文科省に居ることも興味深い。
新しいどころか400年昔の考え方。
生徒に選ばせれば良い。「コミュニティスクール」と「受験対策をしっかりする学校」のどちらに行きたいか?
400年前から時代を振り返れば、子は地域で育てていた。(コミュニティスクールみたいなものだ。)。
しかし、諸外国に比べ学問が遅れ、学問が大事ということで寺小屋ができ、学校ができ、外国の学問を学んだ。
「日本を取り戻す。」と言ってた脱税政治家がいたが、「日本をエリートの牧場に戻す。」ということだ。
海陽学園とか、エリート層から見れば、コミュニティスクールはまるで人間を家畜に洗脳する牧場に見えるだろう。