私の母について
ノート3回目は母についてです
母に言われた言葉で忘れられない事は「産むはずじゃ無かった」
この言葉に私は今も苦しめられてます、苦しい事や嫌な事があると“産んで欲しく無かった”と思ってしまいます
母は5歳年上の兄をとても可愛がり「ボクちゃん」と呼んでました食事のオカズに差をつけたり
子供会の旅行には兄だけ連れて行って私は留守番でした
兄が可愛いのは分かります勉強も出来るし大人しいし将来は面倒を見てもらいたいからだと思ってました
12歳で初潮を迎えた時には「ずいぶん早く来たね」と、、、何も用意して無かったのか母の生理パンツを履いた記憶があります
もちろんブラジャーだって私から買って欲しいと言うまで買って来てくれませんでした
生理痛が酷くて苦しくても相談出来ずにバファリンを薬箱からこっそり取って飲んでました
父の為だけに奮闘してたのだろうから仕方ないと今は思いますが、、、
私は娘が産まれた時に“母のようにはなるまい”と固く決心しました
でも、反面もっと母の手伝いをすれば良かったとも思います
母の姉(私から見ると叔母)が洋裁が得意で良く服を作ってくれたのを覚えてます小学校の入学式に着たワンピースも叔母の仕立てたものでした
小6の修学旅行に行く時に着たワンピースも花柄で素敵でした
母はこの姉をとても頼りにしてました仲良し姉妹でした
母は思った事を何も考えずに言葉として発してしまう人です、これは言って良いいかを考えないで喋ってしまいます
父との喧嘩もこの事が原因なのかな?と思ったりもします、怒鳴ったり暴力を振るう父の方が悪いのだけれど
鮮明に覚えてるのは兄の婚約者が我が家に手作りのシュークリームを持参して来た時のことです
おもてなしに母はケーキを出してケーキの横に婚約者の作って来たシュークリームを添えてあったのです、見栄えはシュークリームの方が劣ります
母は「このケーキは○○が好きなのよ」と兄の好きなのはこっちだとイヤミ?とも取れる言い方でした
兄嫁はかなり譲歩して母とはとても仲良く同居出来ていますが
兄嫁も割と何も考えないで言葉を発する人だと言うことに後で気付きました
兄が嫁が言ってた事を私にわざわざ報告するからです兄も何も考えないで言葉を発する人でした
一家でモラルが無いのです似た者同士で良かったと思います
そんな母は今年90歳になりました、元気ですが腰も曲がり週2回ディケアに通ってます
コロナのせいで友達に会えないのが寂しいようです
私も何年も会いに行ってませんが会いに行かないときっかけを失ってしまうな~と思います
長々と書いてしまいましたが読んで下さった方が居ましたらありがとうございます♪